壁の言の葉

unlucky hero your key

 以下、えらそーにのたまう。


 『明日への遺言』。
 先日ここにネタバレ感想を晒したばかりでござる。
 公開からちょっとばかり時間がたった今、あらためて耳を澄ましてみた。
 すると聞こえてくるのはあれを『反戦』映画とカテゴライズする声。
 目立つ気がするのだが、どうだろう。
 特にマスコミを通じてのが。
 はたしてそうだったのか。
 あたしの解釈が甘かったのか。
 きっと甘かったのだ。
 根っからのスイート・ガイなのだ。
 確かに『英霊の言乃葉』には、平和を願う言葉でしめくくられているものが少なからずある。
 この映画の岡田資中将も、それを願っていた。
 けれど、
 平和の反対概念が必ずしも戦争とはかぎらない。
 平和をうったえることが、『反戦』運動にはならないケースだってあるのではないか。
 平和のために、やむをえず戦わなければならない場合が。
 現にあったし。
 というか、大概の戦争は平和を目指してのことだろう。
 先の大戦だって、敵味方双方のかかげた大儀は、自分側の『平和』でございましょ?
 より豊かに。
 快適に。
 日々が平穏であるように。
 問題はそんな『平和』を具体化しようというとき、そのスタイルが国柄によって違うという点。
 我々のいう平和ってなんすか。
 争いがなく、みんな長生き?
 長く生きるだけ?
 電気ガス水道、テレビ、ケータイ、パソコン、ネットの完備された生活水準?
 じゃあ花のお江戸とか、あるいは戦後の昭和は平和じゃなかったの?
 未開の地の民は、平和じゃないの?
 信教の自由?
 じゃあ中東の人々に、平和はありえないの?
 自由って、何?
 その価値観は世界共通?
 だから解釈自由で抽象的な『平和』という言葉にごまかされちゃ、だーめ。


 めっ。


 『自由』と『平和』ほど、戦争に利用される概念もないのだし。
 人は「あいつらは自分たちとは違うものを食べる」というただそれだけのことで。あるいは同じ神を信じないというだけで、いとも簡単に戦闘的になれるのだ。
 自らの平穏のために。
 そういえば、
 ありもしない大量破壊兵器に『平和』を乱されるという言いがかりでおっぱじめた戦争(侵略?)がありましたな。
 つい、こないだ。


 戦争。


 できることなら避けたいし、悲劇かもしれん。
 んが、
 目を背けてはいけないのっぴきならない現実というものもあるわけで。
 同胞がレイプされているまさにその行為の横で、崇高なお説教をぶつおバカさんになっていてはいかんのだ。
 だから闇生は『反戦』と聞くと、いったいどの戦争への反対なのか、具体性を求めてしまう。
 はて『平和』とは、どこのなんの平和なのかなと。
 『テロ』もまた同じ。
 求めたところで宙ぶらりんにされるのがオチなのに。


 とかなんとか。
 不肖闇生の拙い戦争観なんぞはおきざりにしましょう。
 放置プレイかましてやりましょう。


 ともかく、
 少なくとも、
 この映画のなかでの岡田の言動は、戦後GHQ言論統制に骨抜きにされたものではない。
 でなければ、あの法戦での毅然とした態度はなかったはず。
 戦時下でのあの処刑を、彼は懺悔したか?
 後悔したか?
 ましてや、それを『戦争』のせいにしたか?
 軍部が馬鹿だったと、転嫁したか?

 
 自国の生産物の余剰分の買い手を確保することが、戦勝国のうまみであるが。
 まあ、市場の確保というのだろうか。
 それには敗戦国の食料自給率を、あの手この手で下げるのが通例なわけで。
 たとえば、
 お米が余ってしかたがない国に、自国の小麦のうまみを根付かせる。
 胃袋にすりこませる。
 そのために学校給食法でパン食なんぞをやらせる。
 パンにすっかり慣らされた子供は、やがて米から遠ざかる。
 外交圧力で減反政策。
 田んぼを減らし、里山文化を手放させる。


 戦争はなにも武力によるばかりではない。


 その結果、
「鯨なんて食べなくても生きていけるのに」
 だなんて声がまかりとおる。
 マグロも牛もパンも牛乳も、食べなくたって生きていけますが。
 こうして心の占領が完了する。
 そんな占領下の口で、なにが自由か。
 個性か。


 自分の命と引き換えに岡田が守ったのは、いったい何だったのだろうか。
 部下の命。
 はたして、それだけだろうか。




 ☾☀闇生☆☽


 追伸。
 『反戦』だった。
 と、とりあえずそう片づけてしまうのが、無難なんでしょう。
 その手の『無難』を、岡田は嫌うと思いますが。
 それから、
 そうそう、大事なことを記し忘れていた。
 この映画、男岡田資ここにあり、なのは確かである。
 それは肯定派が口をそろえるところ。
 あれは確かにわかりやすい『強さ』である。
 しかしながら、
 彼を支え、
 傍聴席でやわらかに見守りつづけた妻の気丈もまた、まぎれもない『強さ』なのだ。
 ひょっとすると、夫以上のね。