食い物の恨みは、おそろしい。
などというが、先の大戦の敗因のひとつとして、司馬遼太郎は兵站の軽視をあげている。
彼は、いち兵隊として敗戦の苦味を思い知ったものだから、その指摘に容赦はない。
戦地を無闇に拡大したために補給線がのびきってしまい、戦闘どころではなかったと。
なるほど。
んが、
ならば、どうしたらよかったというのか。
他にどういう手だてがあったというのか。
などといった大それた事には、ここでは触れないよ。
当の司馬ですらついに言及しなかったし。
あたしにゃ、その能力もないしね。
といって、「あの戦争はなんだったのか」などと題しながら、責任を国内にばかりさがす無粋な番組を、わざわざイヴの夜にぶつけるような野暮てんにも、首をかしげてしまうわけなのだが。
そもそも主役が、首をかしげてばかりいる人だった。
ともかく。
司馬は、古今の戦争を必ずそういう視点でみつめることを忘れない。
それは古代中国を描いた彼の代表作のひとつ『項羽と劉邦』にも、あらわれていた。
その時代、ひとかどの『人物』というものは、どれだけ多くの人を食わせる事ができたか。それで決まるとしている。
強い武将のもとに、兵が集まるのも戦利品などが理由だし。
むろん善政をしくとは食べさせるということだから、おのずと人口は増える。
さらにいえば、富豪が妾をたくさん抱えるのも、『食い扶持』で考えればわかりやすく。
富のあるものがより多くの腹を満たすというきわめて現実的なね、知恵が。
とどのつまり、食いっぱぐれを減らす役割もあったと。
花より団子だ。
それが、建て前もふんだんに含めた『理』でもあったわけ。
むろん、現代でそれを復活させろとは、思わんよ。
仮に思っても、できんし。
過度にそれを運動化すれば、赤旗ぱたぱただし。
んで、
なんでこんなことをのたまっているのかというと。
はい、連日連夜報道されている大不況を考えていてのことなのです。
崩壊した終身雇用制というのは、この、より多くを食わせて安定させるという機能があったのですな。
それと引き換えにチームへの忠誠が、求められたと。
タダ飯は、いかんよと。
わかっとりますよと。
しかし、いつしか個人主義が吹き荒れて、
「社会人。なったつもりが会社人」
そんなキャンペーンも手伝ってか、人々は組織のしがらみを嫌い、自由を求めた。
義務の軽減を、リスクと引き換えにね。
立たず、属さず。
自然、フリーターや派遣が増えた。
よって納税や国保の義務も、自由とやらの身勝手にないがしろにされた。
いやになったら、身軽に転職だ。
企業も、これ幸いとばかりにその風潮にのっかった。
『理』という痩せ我慢を棄てて『利』についた。
もとより、しがらみを嫌った風潮の産物だ。邪魔になったら切ればいいじゃん、と。
ところがそんなことを言えたのは、平和で景気の良かった時代のことである。
身近な群れに執着しなくとも、食い物にありつけるだけの豊かさがあってのこと。
それが『項羽と劉邦』の戦乱のごとき不安定に放り込まれると、誰しもひとりぽっちの弱さを思い知るのだな。
そう、現在のように。
けれど、もはや遅しだ。
一度壊れた『沢山を食わせる』という美学。
そして、その恩に対して、一肌脱いで報いようという美学の、釣りあい。
そのために社員の家族も含めてよしみを深め、絆を保つという安定のシステムには、一朝一夕には戻せないだろう。
採ったら採ったぶんをそっくり自分のものにしていた者が、群れで分け合うなんて。
まず個人という名の胃袋が、そのうまみを忘れてくれないだろうし。
そもそも無駄とリスクを省くことに慣れた群れ側に、すでに受け入れ態勢はない。
国政のトップは代々、『沢山を食わせる』意識に疎いお方ばかりだし。
となると、あぶれそうな人やあぶれてしまった人達どうしの幅広い連携で、(ようするに新しい形態の群れを組んで)切り抜けるべきなのだろうが、いかんせんそこに必要とされるフォー・ザ・チームの気分も、スキルも、放棄してきた半生である。
ここから先は、相当な心のしぶとさが要ると覚悟せねばなるまい。
あたしゃコーマック・マッカーシーの『The Road』の世界を、心象風景としてこれを書いているよ。
はたして、それに耐えられるだけの執念が、鬱ブームの我々現代人に残されているのか、どうか。
大東亜戦争での補給線というものは、主に空間的に無理が出てしまったわけだ。
けれど、これを現代で考えれば、補給線は主に時間的にとらえるべきであろう。
十年、百年と。
(いわずもがな、そのひとつの回答が、終身雇用制でもあったわけだが。)
そのうえで、どれだけ長く太い補給線を保てるかという視点で戦略を練らねばならない。
刹那的な票取り政策では、どだい無理な話なのであーる。
くわえて、お上の無能に憤っているだけでもダメ。
なんでも、アメリカでは「Yes, We Can.」を合言葉にした人が大統領に選ばれたそうだが。
あえてあのキャンペーンに見習うべき点があったとするならば、
「I Can」
にはしなかったところだろう。
ことさら声高な、
「We」
それを個人主義の卸問屋、米国がのたまった点だ。
他力本願よろしくお上に期待しているだけでは、いまだ士農工商の世界である。
いや、棲み分けとそこに生じるプライドが欠落したぶんだけ、現代は封建社会より性質が悪いともいえるだろうね。
さてさて、
神がこさえたこのどっきりを、
「We」
は、どうおもしろがることができるのか。
☾☀闇生☆☽
毎度、えらそーに、すまん。
エロ屋のたわごとだ。ゆるされよ。