和気藹々とした団欒のさなか、
ふと席をたつ者がいて。
くだけた場だから、とりわけ気になるわけでもないのたが、彼は律儀に、
「ちょっとトイレ」
なんてことわって行く。
何気ない日常の、よくある光景。
けれど、仮にこのあとに、
「ホントだって」
とつけられると、どうだろう。
まるで残された者たちがそれを疑ったかのようになってしまう。
ましてや、
「ホントにホントだって」
そう強調されると、こんどはその「トイレ」そのものが怪しく際立ってしまう。
「ホントにホントに、トイレなんだ」
果ては、
「絶対に」
なんて付けてしまうと、もういけない。
「信じろ」
でアウトだろう。
『ホント』が隠し持つウソ臭さに磨きがかかってしょうがない。
火のないところに立つ煙は、そんな摩擦熱が生んでいたりするものなのであーる。
だもんだから、
この『ホント』と『絶対』という強調アイテム。
お手軽なぶんだけ、取り扱いが難しいわけで。
これらは浮気疑惑を晴らそうとするときの定番トッピングでもあることから、その危険性は想像に難くないであろう。
ポジティヴを装ったネガティヴな呪文なのである。
笑顔で唱えるエコエコアザラクなのだ。
だからこそ言葉のプロたちは、それを逆手に利用するわけで。
たとえば、映画。
少年と少女の別れの場面に、ここぞとばかりに放り込むのだ。
「絶対に、戻ってくるよ」
「ホントに?」
「ああ、ホントだ」
「ホントにホント?」
「信じろ。絶対に絶対に戻ってくる」
強調すればするほど、観客はこのあとに控える悲劇を強く予感する。
そうと知って作り手は、予感させる。
その上で裏切ったり、はたまた、予感どおりに導いたり。
厄介な言葉だけに、さぞかしプロも使い甲斐があることだろう。
日常でも、ちょいちょい耳にしませんか。
「ホントにそう思います」
ここにつけられた『ホント』は、ホントならば要らないはずで。
「ホントに感動しました」
「ホントに好きです」
「ホントにおいしいよ」
「ホントにホントに感じたの。ホントよ」
ホントを伝えるときに決して安易に使ってはならない言葉。
それが『ホント』と『絶対』なのだ。
だってさ、考えてみて。
この言葉って、挫折するダイエットにつきものでしょ。
『絶対にやせてやる』
ダイエットの敷居を『絶対』という言葉で、自ら高層建築してしまっているのだもの。
上記の少年と少女の会話も、トイレに行って帰ってくるだけのシチュエーションなら、成立しないでしょ。
コントは別として。
あまりにあたりまえで、確実なことと信じて疑わないことに対しては、普通は使わないものなのだ。
『ホント』も『絶対』も。
それを付けてしまった時点で、すでに自己不審宣言なのである。
白旗を振る布石なのだ。
というわけで昨日に引き続き、PEPSI NEX。
からむつもりじゃないが、昨今のコピーを考えるのに、はからずも面白い題材になってしまっている。
今日みかけたこの商品のポスター。そのコピーは、
『絶対。』
『ホント。』
『決定。』
三人のイメージキャラクターそれぞれに一語ずつ割り当てられていた。
あえてタブーをおかしているのだろうか。
あたしゃ、こうとらえていたのだ。
『絶対』や『ホント』を使わずに、きちんとその確かさを伝えるのがプロの仕事であると。
だから今朝、通勤がてらにこのポスターを目撃したときは、びっくらこいてしまったのだ。
んで、
考え込んでしまったのだ。
いやホント。
絶対。
決定。
有名コピーライター『ほぼ日』氏。
彼がコピーライトの仕事から距離をおきはじめた理由を、どこかで読んだ。
映画のCMなどで、それを観た観客が涙ながらに「泣きました」とカメラに言う。
ただそれだけで客が入る時代になってしまっては、もうコピーライターはいらないな、と。
そうだろうか。
たかだかエロDVD屋風情が、こうしてブログでのたまえてしまえるご時勢だ。
世間は、そんなんでごった返している。
だからこそ、
稀少なプロフェッショナルの仕事が、
とどのつまりは職人技が、必要とされるのではないだろうか。
☾☀闇生☆☽
追伸。
ちなみにあのお三方なら、
ただ飲んでいるシーンだけでいいんじゃないでしょーか。
ゼロカロリーと、あのルックスだけでさ。
今は黙ったほうが、際立つと思う。