壁の言の葉

unlucky hero your key

 小泉堯史監督作品『明日(あした)への遺言』新宿ミラノ2にて
 以下は、ネタバレ感想である。




 戦後、いわゆる『戦犯』として裁かれた岡田資(たすく)中将の不屈の『法戦』を描いている。
 戦時中、米国はすでに無力化していた日本に対し、国際法で禁じられている無差別爆撃を、執拗に繰り返した。
 その敵爆撃機の搭乗員なかで、日本軍によって撃墜されながらもパラシュートで生き延びた米兵たちがいたという。
 大量殺戮をしでかしておきながら、ぬけぬけと脱出した敵兵士の卑怯に、国民は憤った。
 敵ながらあっぱれ、
 というお国柄にも限度というものがある。
 ましてや、士道に逸れた行いだ。
 むろん日本側は彼らを捕えた。
 これが通常ならば、当然彼らは国際法にかなった捕虜待遇を受けることができる。
 しかし、そもそも無差別爆撃によってその国際法を犯している彼らだ。
 おびただしい数の民間人の殺戮者だ。
 戦争のルールを犯している。
 となれば戦士でもなく、
 もはや捕虜でもなく、
 単なる殺戮者。罪人である。
 と岡田中将は判断し、即座に処刑を命じた。
 報復としてではなく、あくまで『刑』を『処』したのだ。
 映画は、この件の是非をめぐる法廷での戦い。法戦にピントを絞っている。

 
 まず、観客は冒頭で無差別爆撃の世界史を、ナレーションとともにおさらいする。
 しかし、出だしでちょっとコケてしまった。
 ここに選ばれたフィルムにひとつ残念があったのだ。
 日本軍による重慶爆撃にふれた個所にあてがわれたのが、当時LIFE誌に掲載された映像。
 瓦礫にぽつん、赤ちゃんが取り残されている有名なフィルムである。
 これは日本軍の非道を喧伝するためにつくられたヤラセであることが、とっくの昔に判明しているもの。
 効果的な構図をねらって、わざわざそこに赤ちゃんを置こうとしている写真が発見されているのだ。
 場所が導入部だっただけに、ああ反日映画ね、と警戒してしまいかねない。


 まず結論を言っておこうか。
 「映画として」不満が残る。
 けれど、あたしゃ泣いたよ。


 たとえば先年の『男たちの大和 YAMATO』にしろ、
 東條秀樹の法戦を描いた『プライド』にしろ、あたしゃ似たような感想をもつのだ。
 映画として、赤点。
 だども、泣いちった、と。
 題材がデリケートな問題なだけに、演出の過剰を過剰に警戒してしまう。
 よって、見つけた粗(あら)に不満を覚える。
 けれども題材がこの国の戦争という、他人ごとならぬものだから、どうしても感情移入がはたらいちゃう。
 それは完全無欠なフィクションとは違って、想像力にダイレクトに作用してくるもので。
 それが演技や音楽の過剰、ひいては演出の不備を、知らず知らずにおぎなっているわけで。
 …となれば、こんなえこひいきは無いだろう。
 ズルはいかんよ。
 と、あわてて客観をこころがけ、あくまで「映画として」評価しようとする。
 そんな反復横とびの挙句、どうにも煮え切らない感想を吐いてしまうのだ。

 
 けれどさ、
 そんな情を切り捨ててまで「映画として」評価することに、どれほどの意味があるのかしらと。
 今回は特にそう思ったし、そういう映画もあっていい。
 あるべきだろう。

 
 正直、劇中の音楽がくさい。
 映像だけでも哀しいシーンに哀しい音楽では、トゥー・マッチ。
 甘いスイカに砂糖かけちゃだめよ。
 塩っ。
 それと、日本映画に登場する外国人俳優、とりわけエキストラの質は、どうにかならんものか。
 大きな不満点は以上の二つだった。


 法廷劇であるからして、場面はほとんど法廷と監房。
 ハリウッドのそれのように、弁護士が声を荒げて陪審員に訴えかけることも、歩きまわることもない。
 俳優の動きは極度に制約され、なおかつ再現映像すら省いている。
 もうね、
 これでもかというくらいにストイック。
 であるからしてセリフの中に重点を置くことになる。
 直球勝負。
 となると、
 演技力もさることながら、観客の想像力も試されてしまうことになる。
 カメラの動きすら真っ正直で決して奇をてらわないのだから。
 そのあたり、昨今の『視覚にうるさい』映画へのアンチテーゼかと勘ぐった。
 監督の師匠黒澤明が、晩年は「ふつうに、自然に撮る」ことを心がけていたのを、思い出すではないか。
 というのも、本編前に流れた予告が、あまりに目にうるさいものだったので…。
 なんかね、ニューヨークで寿司屋がバトルするみたいなやつ。


 岡田中将は一貫して、この一件の責任は自分一人にある、とした。
 そうすることで、命令を実行した部下を守ったのだ。
 そこでは誰もが思うはずだ。こんな人間がいまの政治家にいたらと。
 会社の役員にいたらと。
 相撲部屋の親方だったらと。
 んが、
 それもまた他力本願な感想ではある。
 それにしても、いわゆる戦犯とされた軍人の中には、まだこういう人たちがたくさんいたということがわかる。
 全部がそうだったとはいわない。
 けれど、少なくとも今よりは『人物』がいたのではないか。
 ということは、偶然そのような気質が生まれ出た、と考えるよりは、彼らのような漢(おとこ)を生む土壌というか、国柄というものがこの島にはあったのではないのかなぁ。
 んじゃ、それってなんだっぺと。
 考えてたら、思い出した。
 ちょっと前に流行った言葉に『自己責任』というのがありますな。
 はい。
 あれって不思議なもので、言葉とは裏腹に、必ず他人に対して発せられましたな。
 ようするに、自分の責任ではない、ということですな。
 安全地帯から外に向かって声高に、
「それは自己責任だろう」
 と。
 そこへいくってえと、岡田の時代は「わたしの責任」ですな。
 それを全うした。
 この映画では、その責任感でもって部下を守る点を、強調している。
 けれども彼は、
 ひいてはいわゆる戦犯たちは、
 それぞれの責任感において、法戦で未来の日本を守ったのである。
 守られたのである、我々は。


 最後に、
 この手の映画は御老人が多く来場される。
 かつて『硫黄島からの手紙』も『YAMATO』もそうだった。
 『うなぎ』も、今村正平監督の世代が集結して、そうなった。
 で、
 問題は上映時間についてである。
 ただでさえ頻尿の方が多い。
 くわえて血管詰まりの予防のために、小まめに水分をお摂りになる。
 となれば、トイレが近い。
 とても(予告を含めて)二時間を超える長尺を耐えられるわけはなく。
 後半になると、しきりに席を立つ方が多く、その出入りで観客は気がそがれる。
 クライマックスほど、そうなる。
 当然、本意ではないはず。
 言いたいのは、休憩を設けられないか、ということ。
 黒澤明の『七人の侍』や『赤ひげ』には、途中に休憩が挟まれたようだ。
 ビデオで観ると、そういう表示が出て、その間は劇中の風景と音楽が流れているのだ。
 芝居も、長いものは休憩がある。
 大人計画の『ニンゲン御破算』なんかは、二度あったらしい。
 劇場にしてみれば、客の回転数を優先しているのだろうが。
 なんとかならんものだろうか。


 とはいえ、
 ご老人のマナー違反も、残念ながら目立っていた。
 整列入場を無視して、上映中の場内に入ったり、覗いたり。
 ケータイの電源の切り方がわからなくて、鳴りっぱなしになっていたりと。
 相手が相手なだけに、劇場側も、難しいのだろうけれど。


 余韻に浸りつつ、帰りの電車内。
 なんか、都の自殺予防キャンペーンの広告に目がとまった。
 毎度おなじみ命の大切さをうったえるものだ。
 が、大切だ、の連呼だけでは決して救われない。
 胸に届かない。
 生命には目的としての一面と、手段としての一面があるのではないだろうか。


「死にたい」


 もし、あなたが今そう考えているなら、この映画を観てみて。




 ☾☀闇生☆☽