マイケル・ラドフォード監督作、ウィリアム・シェイクスピア原作
『ヴェニスの商人』DVDにして。
戯曲を映画化するために工夫すべき処理はもろもろあるのだろうが、そのひとつにモノローグがある。
独白だ。
舞台ならその役者のみが客席をむいてセリフを吐けばいい。
それは心の声であって音声ではなく、客である我々だけに届いているのだという、ひとつの方便。
いわば約束ごと。
けれど、これを映画化するとなると、工夫がいるもので。
たとえば古畑任三郎式だ。
その瞬間だけ照明が落ち、田村正和がカメラに訴えるというあれも、そのひとつだろうし。
現場ではセリフを言わず、口を動かさず、のちにアフレコとして合わせるとか。
なんせその世界のなかで音声としてセリフを吐けば、隣の人物に丸聞こえだもんで。
「しめしめ。今のうちに、あのお宝を盗んでしまおう」
なんてパーティの最中に呟いていたら、それ周囲に聞こえてるでしょーが、と。
んなことを思いつつ、
んでもってそれを努めて忘れようと心掛けつつ、観賞したのであーる。
原作は言わずと知れたシェイクスピアだ。
自分の心臓まわりの肉1ポンドを借金のカタにするという、そんな契約をしてしまうというお話。
むろんそれは、返済への盤石なる自信あってのことで。
だから彼は、なかば度胸試しとして話にのるのである。
金を貸すのはユダヤ人のシャイロック。
これを名優アル・パチーノが演じる。
シェイクスピア研究家としての顔をもち、むろん舞台俳優としての経歴も映画のそれに決して劣らない彼だ。
シェイクスピアとその戯曲を探求するドキュメントフィルム『リチャードを探して』では、自らメガホンをとっているくらいであるから、いつにも増して役作りに熱がこもったのではあるまいか。
さて、
舞台は16世紀のヴェニス。
そこは当時としては比較的に自由な都市であったそうだ。
が、ここでもやはりキリスト教が幅を利かせており、ユダヤ人たちは土地の所有を認められず、ゲットーの中に押し込められていた。
外出するときは、赤い帽子をかぶることを義務づけられていたという。
彼らの商魂がたくましくなるのは無理もない。
して、それがゆえに利子をとるユダヤ人たちと、キリスト教的価値観は相いれず。
それでなくとも金貸しというものは、いつの世でも忌み嫌われるわけで。
とまあ、そんな差別の背景を、この映画はことさらに強調していた。
クライマックスは法廷のシーンで。
期日までに返済ができなかったアントーニオに対し、シャイロックは契約通り彼の胸の肉を催促する。
しかしカネは用意できているのだ。
しかも借りた額の倍を返すとまでいう。
それでもシャイロックは容赦しない。
このあたり、先述した差別の前振りが効いてくるところで、固唾をのんでしまうところである。
すでにシャイロックはカネに執着しておらず、復讐の鬼と化している。
なるほど彼は間違っていないのだ。
約束の期日は過ぎていたのだから。
キリスト教徒の支配する司法側はシャイロックに対し、訴状の取り下げを促す。
温情を、
そして慈悲を示せと。
が、彼は頑として厳密なる法の裁きを求めるのだ。
このくだりでのアル・パチーノの凄味。
一見に値する。
差別の背景と、
キリスト的価値観のみを絶対とするその世界での孤立と相まって、あたしとしてはシャイロックに肩入れしてしまったのだが、みなさんはどうだろう。
そして、あまりにここで緊張させられたせいで、このあとのエピローグのだらだらと長いことといったらない。
早く終われよ。
はしたないことに、なんどもそう呟いてしまった。
まるで、しまりのない屁のような。
せっかく安定した画面だというのに、ぶち壊しではないか。
連想として。
落語の『大工調べ』が浮かんだ。
滞納した家賃のカタとして、大家に商売の大工道具をとられちまった与太郎。
カネも返せず、仕事もできない。
親方に頼んで肩代わりしてもらったのだが、この返済金がほんのちょっぴりだけ足りなかった。
一両二分八百のところを、一両二分だけ持っていった。
その足りないわずか八百を発端として問題はこじれにこじれ、双方が出るとこに出る羽目になるというお話である。
この噺、結局のところは名裁きが下って、滞納した与太郎側に司法がほほ笑む。
けれども、悪いのはやっぱり与太郎だわな。とは立川談志のお言葉だ。
金貸しの盲人たちを皮肉った絵が江戸時代に描かれているから、あえて宗教的背景や人種を別としても、やはりどこの世でもそうなんですな。
談志はこの噺のオチに、どこか腑に落ちないのかもしれない。
かく云うあたしも、この映画『ヴェニスの商人』の判決に釈然としないのであーる。
☾☀闇生☆☽
それと、同性愛の匂いを嗅ぎ取るのも、この映画では重要だったりします。
それも犠牲としてのそれね。
なにゆえそこまでしてやっちゃうのよ、という根拠として。