噺家の弟子が、その師匠から求められるもののひとつは、なにを置いてもまずは状況判断能力であるという。
師匠がいまどうしたいのか。
どうされたいのか。
のどが渇いているのか。
腹がへっているのか。
だとしたら、何を飲みたいのか。食べたいのか。
して、それをどの程度欲しいのか。
熱いコーヒーか。
ぬる目のお茶か。
冷たいおしぼりか。
流行りのスイーツか。
ひとまずの茶漬けか。
がっつりとコース料理か。
もしくは、しばらくひとりでいたいのか。
その昔「お茶くみ」という賤業があった。
けれどこれほど人間観察の必要なポジションもないもので。
観察し、考えて、相手の身になり、行動し、正解を求める。
おそらくはこの能力と似た部分を使うのだ。交通誘導というものは。
いわば滅私の気配り。
現在配置されている工事現場は、工事銀座とでもいいたくなるほどに、交差点に現場が集中している。
それぞれ違う業者の作業帯が、三社も四社も重なっている。
となれば、それぞれと契約を交わしたケービ会社が、誘導員を派遣しているわけで。
そんな異種格闘さながらの交差点の中央には、指揮者のタクトのごとく誘導灯を振って、四方から来ては三方に散っていく車両を裁いてみせる猛者がいるものだ。
どのチームもそんなリーダーが仕切っている。
さながらブレイクダンスのような忙しさで。
片交でつぶれている車線のバスにまずは進めの合図。そうしながら直進する対向車のライトバンを交差点の中央まで誘導してバスを待たせ、その後方の右折車を脇から進めて一旦停めてベビーカーのママを横断させながら、そのまた後方の左折車を行かせ。そのころ調度先程のバスが交差点に進入してくるので、内輪差を意識しつつその進行方向へ進め。同時に右折車を行かせ。信号無視の自転車に注意し、片交の停止線にいる同僚に「止めろ」の合図。けど、その相方がぼけっとして進め続けているので全身のゼスチャーで一喝し、交差点で待ち続けているライトバンに頭を下げ…。
まことにもってめまぐるしい。
で、どのチームにもぼんやりさんがいて。
トイレ休憩中などに他社さんとはち合わせると、それを愚痴られるときもあったりする。
うちのチームも昨日、ひとりが作業員のリーダーに怒鳴られた。
あたしも毎日怒鳴られているクチだが、あんなのは、それに比べればボヤキにすぎないと確認したほどのやつで。
つまりは絶叫である。
大人が大人に町なかで絶叫されるなんてことは、そうは無い。
しかも親子ほどの歳の差の、他人だ。
お父さん、息子に叱られるの図。
瞬間、通行中の車中のドライバーが、その声量に肩を強張らせたほどであった。
そうしなければならないくらい現場というのは、時として緊張を強いられる瞬間があるものなのだ。
なんせ危険がともなうと。
搬入予定のミキサー車がバリケードの前で停止した。むろん作業帯への進入のためである。そのため後続車の交通がせき止められた。ケービ士はただちにバリケードを開け、後続車を待たせ、ミキサー車を入れなければならない。
なのに停止したミキサー車の意思を察せず、進めの合図を続けていたのだな。彼は。
普段はもっとも温和な作業員による我がチーム年長者への大音声であっただけに、見ていてこっちが凹んだよ。
ユンボ(ショベルカー)が穴を掘っていれば、ついついその穴に見とれているようなお人だ。
警戒すべきは、その周囲の歩行者であろうに。
歩行者やら、作業員やら、通行する車両やらの先を読む。
よって使えるケービ士は常に緊張を解かないし、現場のすみずみまでを終始観察している。
目端が利く、というあれだ。
で、死角に至るまで気を配るから、よく動く。
だもんで、サボりどころを目ざとくみつけ、こまめに気も休ませる。
そのあたり、ぬかりがない。
それでいて彼らのことごとくが役者でもある。
歩行者やドライバーへの笑顔もまた、交通や作業を滞らせないための合理的ないち手段なのだと捉えている。
満面の笑みと柔らかい物腰でおばあさんの横断をたすけつつ、振り返って鬼の形相で仲間に指示したりもする。
これ、実はかなり重要なのね。
考えてみれば、なんの仕事でも同じで。
家事をこなしながら学校へ行く子どもや旦那の弁当その他の支度をしつつ、笑顔を心がけ、念頭には自分の出社時刻や仕事の件を灯しているという。世の働くママの奮闘もまた、その代表例であり。
有能、とはどうもそんな働きを指すのだと確信する日々の闇生なのであった。
☾☀闇生☆☽
お茶くみから修行を始めるというのは、理にかなっているのですな。
というか、有体に云えば『茶の湯』ですから。
おもてなしの道なのです。