スティーヴン・キング原作、フランク・ダラボン監督作『ミスト』DVDにて。
なんせ霧に惹かれるのである。
「霧の中に何かがいる」
その不安と、静謐と、白い闇の明るさと。
見えないことによってかき立てられる想像力が、つまりはチラリズムが、強烈にそそるのだ。
いやん。
たとえばゲームで霧といえば、あたしにとっては『レガイア伝説』に尽きるわけで。
それはもう岩井俊二がメガホンをとった有名なCMから、『10.29霧に注意』とだけ書かれた宣伝ポスターから、下馬評にある罵詈雑言までをも呑みこんだ上での、いわば付き合いと言っていい。
もしくは、腐れ縁。
また『サイレントヒル』に至っては、怖くて先に進められないまでに感情移入してしまうという、あたしゃそんなおバカさんでもある。
して、そんなおバカさんをおバカさんたらしめている元凶が、何を隠そう霧なのであーる。
んなことだから、それら傑作のヒントになったと思われるスティーヴン・キングの『霧』を避けて通れるはずもなく。
原作は扶桑社ミステリー文庫の短編集『骸骨乗組員(スケルトン・クルー1)』に収録されている中編で。
案の定、大満足のデキであった。
白昼、突如として大量の霧が町を襲う。
前夜の嵐から停電に見舞われていた人々だったが、ために買い出しに訪れたスーパーマーケットに閉じ込められてしまうはめとなる。
間もなく霧の中には未知の巨大生物が徘徊していることがわかり。
しかもそれらは人を襲い、食うと。
しかし停電のため、電話が通じず外部に助けを呼ぶことができない。
やがて日が暮れても一向に霧は晴れず、恐怖のなかで次第に人々は互いを猜疑し、派閥に分裂していく。
狂女を預言者に祀り上げてカルト化する一団もあれば、あくまで脱出を考える現実的な人々。
やがて霧の原因に軍の実験が関与しているらしいことがわかるが、作品としてその犯人さがしにはあまり意味は見いだせない。
問題は恐怖の対象にではなく、恐怖心そのものなのだから。
恐れる心が人を狂わせていくと。
ならば霧の中の異形たちは、その集団心理を描くために存在するわけで。
霧というベールによる得体のしれなさこそが、重要になってくるわけだ。
人を描くための、異形。
実体をいかに見せずに、見せるか。
このあたりは小説の得意とするところで、読み手の想像力のありったけを刺激してやまないだろう。
けれど、これを映像化するとなると、どんなに対象を隠そうとも、なにかしらは具体的にしなければならず。
そのセンス如何によっては、謎の魅力をぶち壊してしまいかねない。
で、小説を先に読んでいた立場からすれば、やはり異形たちの具現化にこのおっさん、萎えた。
あられもなくしぼんだ。
名作『ショーシャンクの空に』を撮ったフランク・ダラボンが監督を務めているから、せめて人間ドラマについては安定した流れを期待していたのだが、それも弱い。
ひとつひとつのカットに、どれも正解をみた感触が得られない。
して、その積み重ねとしてのシーンにも、無駄や不足があるように感じられた。
わかりやすいのは、窓から侵入した羽虫のくだり。
その一匹が主人公の息子を襲おうとする。
人々のなかで唯一銃を手にしているオーリーがそれを狙い、虫を挟んで反対側に息子。
虫に隠れてしまって、オーリーからは息子が見えない。
狙いをつけ、引き金に力をこめるオーリー。
はたと、息子の危機に気づく父親。
父は息子を抱きよせ、オーリーは見ごと虫を射殺する。
その緊迫した一連の流れには、周到なレイアウト術が不可欠なはずで。
それはそれぞれの位置関係や、視界の違いの説明であり。以上を踏まえたうえでのリズム感に大きく拠って立つものでなくてはならない。
なのに、そこが中途半端であった。
いや、それはあくまで代表例であって、ほかにもシーンの狙いに適っていない個所が散見された。
ラストは物議をかもしているというが、なるほど、小説とは大きく異なっている。
以下、ネタバレとなる。
小説では、ついにスーパーを抜け出した主人公親子が、ガソリンの続く限り車を走らせる。
けれど、ついにそれが尽きても、霧は晴れないのだ。
ひょっとすると全世界が霧の中に堕ちたのかもしれないという、絶望の予感を残して終わる。
映画では、全世界が霧にという『人類の絶望』は回避され、かわりに『個人的な絶望』が用意されている。
なんでもこのラストは原作者のキング自身もお気に入りだという。
あたしにとっては、原作の絶望の方が、広がりがあって好きだ。
映画版は、諸悪の根源である米軍が、結局はその救済者でもあるという。どこまでいっても米国中心の価値観が、事態が世界破滅の危機であるだけに、邪魔っけに思えた。
☾☀闇生☆☽
追伸。
ラストに向けての音楽。
狙いはわかるが、特にストリングスがお粗末かと。