壁の言の葉

unlucky hero your key

鼠のゆくえ。



 それでまたテレビ芸人側も番組の論調にあわせる。いわゆる正論めいたことをのたまう。
 多くの場合、取材VTRは予備知識のない視聴者にも番組の論調に共感できるように構成される。
 テレビ芸人たちは予備知識のないままにそれをスタジオで見せられ、そして番組の狙い通りの反応をする。
 それを『率直な感想』『素直な気持ち』として、あたかも不純物のないプレーンな意見であるかのように取り扱う。


 人のプレーンなどろくなもんじゃないのだけれどね。
 そういう発言を導きだされている。


 番組が専門的に偏りすぎないように、という名目で多くの番組が芸人やタレントを置いている。
 いわば茶の間(死語)の代弁者だ。
 もしくは茶の間への通訳者としてのポジションだったのだろうけれど。
 しかし彼らタレントや芸人が一般庶民的な生活をしているわけがない。


 断っておくけれど、庶民的というのは質素であればそうだとは限らない。


 やれカップ麺の価格を知っているかなどと野党議員が大臣に詰問するシーンを見かける。
 昔からあるありふれた光景。
 そしてそれに答えられないのを庶民的でないとする風潮もまたお馴染みだ。
 ではスーパーに通って質素に生存していればすべて庶民なのだろうか。
 ボロアパート住まいでスーパーの閉店間際の割引品で食いつないでいる生活保護者。けれど日がな一日パチンコ屋に入り浸っているような人は庶民感覚の体現者なのだろうか。


 大衆ではあるだろうけれど。

 
 人間と云う生き物は常識非常識を併せ持つ。
 理性獣性といってもいい。
 と言い換えてもいい。
 私たちはそのふたつの性質を瞬間瞬間でせわしくせわしく行き来している。
 その行き来の仕方におぼろげながらに現れてくるのがだ。
 社会においては、獣性を理性で手懐けることでやりくりしている。
 そして頃合いを見計らっては(多くは私的な状況下で)小出しに解放することで獣性を辛うじてなだめているのに過ぎない。
 

 暴力も性欲も食欲も征服欲も……etc、そのまま放てば社会は収拾のつかない混沌に陥る。
 そして獣性を野放しにした人間。獣性を制御しない人。それがまさしくプレーンだろう。
 先に「人のプレーンなどろくなもんじゃない」としたのはそういう意味においてであり。
 なので人であり続けるためにはそれらを代理的に、あるいは疑似的に、もしくは形を変えることで大なり小なりの発散する必要があって。
 それを援けてくれるのがたとえば娯楽だ。
 多くの娯楽やスポーツがその促進剤として機能している。
 

 ガス抜きね。


 社会の根幹は理性に基づいた常識で成り立っている。
 けれど、それだけでは個々の獣性は慰撫されず。
 かといって人は獣性の克服にばかりかまけてもいられないわけで。
 ならば常識・日常の外側を扱って見せる存在が要る。
 どうしても要る。
 それが芸人の役割でしょう。
 それを談志は『落語とは業の肯定』という表現をした。




 いわゆるコンプラで四方八方から追いつめたところで、心の鼠(獣性)を根絶やしにすることはできない。
 獣性もまた人間の構成要素なのだから。
 さて今後なお一層追い詰められていくであろう鼠。
 窮したそのときはたして何を噛もうとするのか。
 見ものだけれど、不安だな。




 ☾☀闇生☆☽