うちのアパートから15メートルほど離れた区画に、分譲の一戸建てが8棟ばかり建った。
道の行き止まりにコの字型に配列された、よくあるスタイルの一群。
今年のはじめごろにはすべての家に住人が転居してきたようだ。
ステイ・ホーム期間も午後ともなると、彼らは子供たちをそのコの字型のスペースで遊ばせるようになった。
実に平和的な光景だ。
んが、
週末になるとそのコの字型のスペースでバーベキューのような宴を始めるようになった。
転入者どうしの交流を深めているのだろう。
それぞれ子を持ち、家を買う年齢の家族ということで、世代的にも馬が合うのかもしれない。
青空の下、実に開放的な宴をしている。
子供たちは奇声をあげ、誰はばかることなくはしゃぎ、大人たちも屈託なく笑い、話し、騒ぐので、すべて丸聞こえである。
そこまではいい。
問題は、そのコの字型のコミュニティだけで閉じていること。
先住民ともいえるそのコの字に隣接する人たちへの愛想が、ない。
ゴミ出しの時間帯や、通勤時の車のゆずりあいなどで、実に愛想が無い。
配慮がない。
ははん、
こーゆーところから亀裂というのが入るのだなと思う。
コの字型のコミュニティを築いたのは正直すばらしいが、その外側を想像できていないような騒ぎっぷりである。
なるほどなあ、と思ふ。
隣接の幼稚園からの幼児たちの声がうるさい、などとバカげた苦情を言う年寄りが世間にはいるという。
子供だから騒いであたりまえだろう、と世間はそれを批判する。
あたしもその口だった。
けれど、ひょっとしたら、騒音以前に双方のあいだにコミュニケーションがなかったのが問題ではないかと考えるようになった。
挨拶や、ちょっとしたふれあいや、といったような。
「よろしかったらご一緒しませんか」と転入のあいさつがてらに先住の戸建て者たちに声をかけてもよさそうなもので。
それを挨拶も愛想もなく、騒ぐにまかせているのは、周囲にとっては存在を無視されているようなものだ。
ニンゲン関係で無視というものは、おだやかでない。
幼稚園も保育園も、近隣住人との交流会でもすればよいと思う。
それを「子供だから当たり前だ!」という臨戦態勢で出るのはどうだろう。
問題は騒音ではなく。無視したふるまいに苛立たされるのではないでしょーかね。
たとえば、
見知らぬ他人に隣席でケモノじみたげっぷを長々とかまされて、一礼もないみいたな。
露骨に片尻をあげて屁ェこかれるみたいな。
それが毎日続く。
こちらの存在を無視している。
自然現象だから仕方ないだろう、と言われたところで、どうなんだ。
闇生