夜勤明けの朝酌はひきつづき『ウォーキング・デッド シーズン2』を観ている。
始末したウォーカーの葬り方には土葬と火葬の区別があって、その選別基準があっさりとチームの共通認識になるところが興味深かった。
思い入れのある人は土葬。それ以外は火葬。
時期が時期だけに戦争と重ねた皮肉として聞こえたよ。空襲とかね。原爆とかね。
日本も昔は土葬が多かったよね。
いまは火葬だけれど。
それと日米の『恐怖』の違いについて。
米国式は明確でわかりやすい。
日本式のは根底に『不安』があるのではないのか。
「なんだかわからない」という心が落ち着かない感じ。
そこに怖さの魅力がある。
起こっている現象自体は、ただちに身の危険には直結しないのに、ざわざわと不安になってくる。
逃げればいいとか、対決すればよいという尺度にはおさまらない現象。
そう思ったのは、ちょうど内田百閒の企画短編集『百閒百物語』を読んでいるからかもしれない。
けれど、時代とともに米国スタイルの恐怖が、映画やゲームその他でグローバルに知れ渡って、だんだんと日本も染まってきているような気もする。
気のせいかもしれないけれど。
恐怖映像、とかいう動画をみていると、海外製のはどうも明瞭すぎて「不安」の要素が少なくなっている。
日本製のも年々その影響をうけていくように思う。
外来種に駆逐されていくようで、露骨になっていく。
それぞれがそれぞれに『らしさ』を保って在ってくれると、ありがたいのだが。
それは撮影機器の世代の違いによる画質の問題ではなくて。
まあ、いいや。
子供の時分に何度も見て、そのたび怖さのあまりに目ざめてしまった夢がある。
昔、ウイスキーかなにかのボトル瓶のラベルに、古い時代の英国紳士が、横倒しの酒樽の上にのっているマークがあったと記憶する。
その男が夢のなかにあらわれて、のっている酒樽を転がしながら近づいてくる。
玉乗りの要領で。
ところが樽はごろごろと勢いよく転がっているのに、そこにのっている男の足は非常にゆったりと歩いているのだ。
樽の回転と足の動きが、合っていない。
樽と男は崖から崖にわたしてある一本のロープの上をそうやって綱渡りして近づいてくる。
男はご機嫌のビッグスマイルである。
ね。
文章にしてしまうと、なんてことない。
男が刃物をもって追いかけてくるわけでも、怖い人相をしているわけでも、身体が腐りかけているわけでもない。
血も叫びも無い。
けど、こわかった。
不安だった。
解決のしようもない怖さに、強く魅入られたものである。
百閒の描く恐怖は、そんなところがある。
起承転結におさまらない。
不安が不安のまま終わるという不安。
☾☀闇生★☽