『談志が死んだ』感想。

談志が死んだ

 
 立川談四楼著『談志が死んだ』新潮社



 夢中で読んだ。




 一門の落語協会脱退騒動の発端となった古参弟子が、師匠を語る。
 死後、その弟子たちによって様々な角度から語られた談志だが、この本のポイントは大雑把に言ってふたつ。
 立川流旗揚げ前を知る弟子によるという所。
 もうひとつは「書かざるは立川流に非ず」と豪語する談志に「小説はお前に任せる」とまで言わしめた自称「落語もできる小説家」による、というところ。
 して、本作もあくまで『小説』であると断っている。
 ようするにフィクションですぞ、と言いたいのか。
 噺のように。
 んが、
 言葉にする。文章にする。という行為はそもそも形の無いものを言葉という型に落としこんでいくという作業であるからして、多かれ少なかれソレそのものからは、ずれる。
 ソレそのものではないのだから。
 だもんでその但し書きは不要だ。
 ばかりか小説と断られた以上、読者は文学の匂いを期待してしまうわけで。
 わかりやすく言えば、談志を知らずに読み物として愉しめるかということ。
 有体に言おう。小説として読むと、物足りない。
 小説になっていない。
 一応は謎解きミステリーの体裁はとっているが、
 回想録の域を出ていないと思う。
 そこに回想される晩年の談志の「こわれかた」は、読みつつ辛かった。
 喉がいってからの談志の高座自体、つらいのだが。
 その狂気に翻弄される著者の愛憎が、生々しい。
 



 小説と断らねばならないわけを斟酌すれば、大多数の洒落の通じない読者への配慮なのですな。
 「これは洒落ですよ」
 と断らせる客がアホなのか。
 断る落語家が野暮なのか。






 ☾☀闇生☆☽


 確か司馬遼太郎が言っていた。
 その人を語るには百年の月日の淘汰がいる、みたいなことを。
 三島文学の本質は、生々しいスキャンダラスな事ごとが揮発したあとに見えてくるはずだ、とも。
 そこへいくと談志の高弟による本作は、あまりに生々しく、著者自身のなかでの整理も完全にはついていない。
 いや否定しているのではなくて。
 師弟という至近距離からの、その逃れようのなさ。
 客観しようにもしきれない、そのもがきのようなものが、貴重なのだ。
 談志の功績(功罪?)は、十年後、二十年後、勝手に見えてくるはず。