ジャック・タチ脚本、シルヴァン・ショメ監督作『イリュージョニスト』DVDにて
ペーソスは、あるよ。確かに。
けれど悲劇とまでいうほどではないし、
泣いたの感動したのといった大作的にあつかうべきでもない。
売り、としてはそんなやっつけをしたいのだろうけれど。
はて、
日本版予告編にある「手品師は、アリスに生き別れた娘の面影を探した」云々なんていうシーンはあったかしら。
付録のインタビューで、監督の解釈として語られてはいたが、どうなのよ?
あの写真を見るシーンのこと?
だとしても、そんな解説はよけいな御世話だろう。
なにゆえこれほどまでにセリフを排除しているのか。
その空白を想像力でたのしまなくてどうする。
あたしゃ久しぶりに『風刺』という、欧米の漫画がかつて持っていた古き良きスピリットを感じてにんまりとした次第。
社会でも、
戦争でも、
政治でも、彼らはひとコマの漫画にして嗤っていたと聞く。
歴史の教科書にまでそれは紹介されてあったし、
わが国にも漫画ではないが『落首』という書き逃げ式の風刺精神がちゃんとあった。
本作ではというと、刹那的な享楽に耽り、移ろいやすい大衆がまんまとその餌食とされていて。
むろん観客にとっては耳の痛い毒ではあるだろう。
んが、
そいつを泣き笑い的にからりと仕上げる加減が絶妙なのだ。
風刺なのだ。
時に自分たちを客観して笑う。
これをこそ健全というのではないのかと痛感したし、
それもまたエンターテイメントの重要な役割のひとつだと思う。
おもねりばかりじゃ、いかんと。
あの予告編を鵜呑みにして、泣きを期待して観たのではすかされることでしょう。
以下、ネタバレです。
内容について。
時代遅れとなった老手品師タチシェフ。
都会ではすっかり落ち目となって、スコットランドの片田舎へ巡業に訪れる。
娯楽の少ないその島では手品すらモノ珍しいらしく。
宿の下働きをしていたアリスは、それを本物の魔法と思いこんでしまう。
タチシェフについていけば、なんでも好きなものを与えてくれると。
打ち出の小づちだと。
こうして二人は大都会エジンバラで生活を始めるのだが、落ち目のタチシェフには仕事があろうはずもなく。
夜な夜なアルバイトをしてまでアリスのための『魔法』使いを演じつづけるはめに。
しかしアリスは刺激的で華やかな流行に心をうばわれ、
物欲に走り、
それを貢ぐタチシェフの労苦を顧みない。
貪欲で、流行に移ろいやすく薄情なアリスに辟易したタチシェフは、ついに彼女のもとを去る。
そして、魔法使いであることをやめる。
手品もやめるのだろう。
アリスが現実に生きてくれることを望んで、相棒のウサギを野に放つ。
これに対してティム・バートン監督の『ビッグ・フィッシュ』の父は、ある意味、最期まで世界に対しての魔法使いでありつづけようとした話だ。
そもそも映画監督という商売が手品師のようなもの。
つまりが観客をまんまと魔法にかける魔法使いであろうとする仕事だ。
そう踏まえれば、ジャック・タチがこの脚本に何を込めたのかがおぼろげながら浮かび上がる。
見え方ががらりと変わる。
こうして振り返ると大衆の象徴として少女アリスが描かれていることに気づく。
アリスは私たちなのだ。
と同時に、いいところのひとつも無い彼女が、一か所だけ光ったシーンを思い出す。
腹話術師に料理を教わって、そのシチューを隣人のピエロにおすそ分けするくだり。
ピエロもまた落ち目でアルコールに溺れており、その夜は自殺をしようとしていた。
アリスの与えた一杯のシチューが彼を救うことになるのだが、おもしろいのは、そのピエロの悲嘆も自殺願望もアリスは気づいていないという点。
せがみ、受け取り、消費するばかりだったアリスが、はじめて与えることをする重要なシーン。
たしか冒頭でタチシェフになにかしてやったことがあったと記憶するが、それは宿の客と下働きという関係性からのものだったはず。
ところがこのピエロのくだりは、まったくの他人といっていいのではないだろうか。
かててくわえて言えば、その後、ピエロは心機一転して活躍し始めるわけでもないのだ。
ピエロもまた、アリスへの感謝を表明するでもない。
料理を教えた腹話術師はついに人形を売り、人知れず落ちぶれて、時代は残酷に過ぎていく。
見返りを期待せず、与えっぱなし。
それこそが、愛。
ただしこの場合、アリスとピエロ双方に救い救われの自覚がないのが、印象的。
そんなもんだろう。
きっとそんなふうにできてるのだ。人生なんてやつは。
どっかで誰かに救われもし、誰かを救いもしてる。
子供たちがホームレス狩りをしているシーンも、強く残った。
☾☀闇生☆☽
愛だの。人生だのと。まったく。