トーレ・ヤンソン作、山室静訳『たのしいムーミン一家』講談社文庫
ムーミンやその仲間たちを世間に知らしめたアニメとは別物、と考えていい。
アニメ版はスナフキンの達観した人生訓や道徳めいたセリフがなんといっても魅力で、日本人らしい努力や反省の奨励のもと未熟なムーミンののびのびとした成長を描いていた、と記憶する。
それがあのほのぼのとしながらも感動的な得も言われぬ世界観を創造していた。
けれど原作はというと、
ムーミン一家を中心に彼らトロール(妖精)たちの世界を描いているのであり、
人間の作った社会的あれこれやしゃっちょこばった道徳や規範、努力の奨励などは描かれない。
仮にそれを扱っても(たとえば本作でスノークが仕切った裁判やパーティ。家族というひとつの制度のように)あくまで妖精たちの『人間ごっこ』としてのことである。
そこに描かれる悲しみや孤独さえも、ごっこではないかと思われるほどに愛らしい。
つまり彼らがどこまでそれを本気にしているのか、はなはだ疑わしいわけで。
ゆえに浮世離れがすがすがしく、そこに生まれがちな風刺的な臭みさえも揮発されていた。
むろんあそぶのが彼ら妖精たちの仕事というか、人生というか、世界であるからして、ごっことはいえ決していいかげんではないのだが。
いや、この『いいかげん』とかその逆の『真面目』『本気』とかいう尺度自体がニンゲン独自のものなのかもしれない。
なのだろう。
ムーミンたちはそんなちっぽけな箱庭なんぞかるがると超越しているわけで。
なんせ妖精ですから。
テレビ版はあくまでムーミンの姿を借りて人間を描いている。
努力とか、頑張りとかね。
原作は、(あくまでこの一作目を読んだ限りでは)それがない。
妖精、という自然として、彼らはそこに躍動しているのだ。
ちなみに読後にYoutubeでアニメ版ムーミンの名シーン的なものを漁ってみた。
上記したように、まるで見え方が変わってしまった次第。
日本の妖怪や神々もまた、本来はそういう存在であったはず。
勧善懲悪や因果応報の外側に棲む。
☾☀闇生☆☽