釈迦もキリストも、自身でつづった文章をのこさなかった。
ために巨大な多面体である彼らの姿は、複数の弟子たちから見た人物像を、それぞれに組み合わせて想像するほかない。
いや、
市井の平凡な人間においても、おそらくはそういう記憶の突き合わせの積み重ねによって、近親者に記憶されてゆくものであろうし。
なんことを、読後に思った。
弟子、それぞれのなかに談志がいて。
それぞれに違うところもあり、むろん共通するところも多々ありと。
だから著者のいう通り、本来語るべきなのである。死者について。
突き合わせで、記憶してゆくべきなのである。
談春は、語らない、という形で追悼しているのだという。
志らくは、語ることで追悼するという。
故人の愛弟子という、血縁でこそないがある意味ではもっとも近いという特殊な関係であったのだからして、それについてあたくし程度の薄っぺらのファンがつべこべいう資格はない。
けれど、その弟子たちのそんな態度の集積に、談志という特異な多面体が浮かび上がるのだと思えば、どうだろう。
だから、追悼バブルだろうが、なんだろうが、ばんばん出していただきたいのであーる。
☾☀闇生☆☽