快楽亭ブラック著『立川談志の正体 愛憎相克的落語家師弟論』彩流社
なんでもこの本の帯によれば「死ねば仏」とばかりに立川談志の死を悼み、その芸はむろんのこと人間性までもを称賛する風潮になっているのだという。
この本はそんなおりこうさんな論調に「ちょっと待った」をかけたものだとか。
著者は談志の弟子で。
といっても正確には訳あって一門を除名となった『元』弟子なのだが。間近で体験した者ならではの立川談志の姿をここに綴っている。
それも除名された弟子という立場を活かした、ありったけの毒舌で。
ようするに三行半を突きつけられて「上等だ」と出て行った女が、元亭主の悪口を言っているような。副題にもあるが、そんな立場ならではの愛憎が行間にみえるのがファンとしては愉しい。
だって、本当に談志が嫌だったのなら、もっともっと早くに退会しているはずでしょ?
読みながら何度も思ったよ。なんでやめないのって。
やめちゃえよって。
ただ、その死を知って泣いたのは桂三枝だけ。東京の落語家はみんな痛い目に合っているから誰も泣かない。といった黒い指摘は痛かった。
そこに談志の孤独を知った。
さながら長屋の嫌われ者『らくだ』を地でいくようではないか。
なるほど、志らくが、晩年の談志の背中に『雨ン中のらくだ』を見たというのは、そういう意味でもあったのかと、あらためた。
もっとも、談志の死をひた隠しにした家族を「これだからトーシローはつまらねえ」と。むしろ見世物にしていじって笑ってやるのが落語家としての本望だろうにと腐すのが誰あろう、このブラックと名乗る著者である。
死をも笑い飛ばす。
それでこそ落語家の真骨頂ではないかと。言うだけあって作中ではお涙ちょうだい的な感慨にはまるのを、つとめて避けている。
いや、
だからこそ『愛憎相克的』なのか。
さて、
読み終えてみると「ちょっと待った」の割には、どうやらそう目新しい談志像でもないと気づいた。
これまで他の弟子たちがいたるところで暴露してきた談志のセコさ、強欲さ、臆病さ、弱さ、身勝手さに加え、毎度毎度マクラでかますハッタリ、そしてエンターテイナーに不可欠な偽悪癖など。それらから鑑みてきた家元像のとおりであったといえようか。
やはり立川談志は、いたって談志なのであーる。
芸についても晩年のそれは、はたして創造のための破壊なのか、単に荒れているだけなのか、といった問答はファンそれぞれが自分の頭で考えたうえで良し悪しに、あるいはそれとは別に好き嫌いにも仕分けしているだろうから、ブラック氏の批評は予想の範囲を出ない。
教訓的な人情話は落語本来の業の肯定にあらず。
そうのたまいつつもなぜか人情話の代表格『芝浜』をくりかえし高座にかけるのはなぜか、というツッコミは、なかなかするどいと思う。なかなか言えないよ、これ。
談春に言わせれば「談志の芝浜は違う」となるのだろうが。
単なる売れっ子好き、というところも談志の弱さのひとつだろうし。
ビート武や太田光に接近するのもそれが故だろうし、贔屓にする弟子もまた売れっ子に限っているというのも、あたしゃわかっちゃいたけどね。
とまあ、それらはともかくとしてだ、
闇生が本文中でもっともひっかかったのは談志の『体制好き』の点である。
ある時期までの談志は反体制的で、いわば「お上に物申す」という落語家本来の姿勢があって刺激に溢れ、痛快だった云々。それがどういうわけか……と著者はつづけている。
談志だけではない。
小林よしのりやビート武なんかもまた、あの時代にそんな変化をした代表格だろう。
当人が自覚しているかどうかは知らないが、これには理由があって。
おそらくは昭和天皇崩御や、国鉄がJRになっていくそんな時代のことではないだろうか。
そうだ村山内閣とか。あのあたりからだ。
そのいわゆる『転向』は。
体制が体制らしく強固にあった時代には、それを揶揄したり笑いにしたり反発したりすれば、その行為はどうしたって輝くものだ。
相手が強ければ強いほど、活き活きする。
それが「緊張と緩和」という、笑いや快楽の関係性にもなっていただろうし。
昨日の記事にならってこれを「束縛と自由」と言いかえてもよいが。
その境界線が、あの昭和の終わりぐらいから、幸か不幸か曖昧になってしまった。
もしくは複雑化してしまった。
同時に単なる憂さ晴らし的な反抗や、逸脱や、狂気なりが、幼稚な駄々になってしまった。
ちょうど今の政権に絡んだあれこれのようなもので。
立見席から野次ってたときにはあんなに活き活きしていたのに、
「ならばお前がやってみろよ」
いざ土俵に上がってみると、まるっきり精彩を欠いて。
おいおい。ただのしょぼくれたおっさんじゃん。
腹、ぶよぶよじゃんと、
で、
それらに投票したのは誰あろう我々なのね。
二世議員だのタレント議員だのと、空気にのまれて。
構造改革だの政権交代だのと、キャンペーンにあおられて。
そんなこんなで、体制も官僚も公僕もけっして宇宙人ではなく、スーパーマンでもなく、聖人君子でもない。その正体は我々とおなじ大衆でございました、となった。
小心で、怠惰で、私利私欲に流されやすい、我々大衆なのだと。
現状を選んでいるのは我々なのよ。
ならば変えられるということでしょ。
野次ってないでさ。
と自主的に社会をとらえればだ、単なるお上批判で済ませるのはおかしくなる。
サブがメインにとってかわったのならばともかく、それでメインが不在になったのでは話にならない。
そこで、主柱は主柱としてあくまで守らねば、と視点ががらりと音を立ててチェンジした。
たとえば、非常識も良しとする立場であるはずなのに、常識側にまわらざるをえなくなった。
電車内のマナー違反にツッコムなどね。
ならば、こきおろすべき最大、最強のターゲットはこの主柱を蝕む大衆ではないのかと。
震災のあとになんとなく買占めに走ってしまい、なんとなく風潮にそって投票してしまう大衆ではないのかと。雰囲気ではないのかと。
なので大衆に支えられてこそ存続する『大衆』芸能にとっては、
とりわけその表現者にとってはつまらん時代になってしまったという次第なのです。
とかく大衆批判というものは、煙たがられる。
なので、うん。
せいぜいが、
「オマ○コ!」
と誰かがきめた放送禁止用語を叫ぶくらい。
「キム・チョンイル、マンセー」とかね。
ちっこい。
観客もその程度でぷちぷちはぜるしかない。
そんなのでは大した解放感も得られんて。
最後に、
一門の落ちこぼれ的存在であるキウイの真打昇進を、闇生はかつてここで肯定的に記した。
それ自体がまるでシャレのようだと感じたのだ。
されどやはり弟子からみれば苦いものがあるらしい。
あるだろう。
死をもシャレにしろと言ったブラック氏でさえ、談志のこの判断を「晩節を汚した」とまるで容赦がなかった。
☾☀闇生☆☽