タル・ベーラ監督・脚本作『ニーチェの馬』渋谷シアター・イメージ・フォーラムにて
圧巻である。
どのカットも完璧で、モノクロ表現の極致を目撃した思いがした。
限界まで無駄をそぎ落として追及された寓話性。
そのくせ、絶望を絶望として観客に体感させんがために、気の遠くなるほど設えられた『間』。
吹き止まない暴風。
とりわけこの『間』の執拗さったらない。
なにもそこまで、とまで思う。
絶望という底なしの退屈は、きっとこんな時間の流れ方なのだろうと、思い知るほどで。
短編向きのきわめてシンプルな物語が、154分という長尺になっているその理由が、他でもないこの『間』なのであった。
言わずもがな、映画とは単にストーリーを伝えるだけのものではないのだが。
して、
ストーリーでは語れない要素があってこそ、映画なのだが。
よって大多数が怒涛の睡魔にやられるに違いない。
断言する。あなたは眠くなると。
それも決してつまらないからではなく、
完璧で重厚な交響曲が誘う深い眠り、のような。
そんな死、のような。
タルコフスキーの映画のような。
ともかく、やたら眠かったし。
と同時に、へろへろになるくらいに、完璧な映画でもあった。
以下、ネタバレでいく。
映画のアイディアは、ひとつの逸話に依っている。
それは、哲学者ニーチェの発狂のきっかけになったといわれる有名な事件である。
町の雑踏で、いう事を聞かぬために御者に鞭うたれていた馬があった。
ニーチェはそれを認めるや駆け寄って馬の首を抱き、人目もはばからずに号泣した。
以来、彼は精神を病んで、回復することが無かったという。
この映画はニーチェではなく、ここでの馬と御者のその後を想って作られたのだそうだ。
冒頭、
荷馬車をひく引く馬とその御者が、暴風に喘ぎながら荒野をゆくところ。
町から帰るところらしく。
これでもかと鞭うたれる黒馬の疾走が、延々と映し出されている。
その迫力たるや、すさまじいのひと言で。
このシーンだけで、これはとんでもない映画だと確信させる画面の密度がある。
カメラが動けども動けども、それがつねに絵になり続けるという驚異。
是非とも劇場のスクリーンで見届けてほしい。
御者は娘と二人暮らし。
彼は右腕が動かず、
よって着替えなどの身の世話は、すべて娘だのみである。
家はまずしく、
食事はソフトボールほどもある大きな芋だけ。
その茹でたてを皿にとり、熱さにたえながら素手で皮をむくと、潰して、塩をかけて手づかみで食べる。
スープもない。
水も飲まない。
貧しいのに完食もせず、
食後は手も洗わず、窓辺に立って吹き荒れる荒野を黙って眺めるだけ。
そんな日々である。
ある日、馬が荷馬車をひかなくなる。
餌も、水さえも飲まなくなる。
馬が使えないのならば、御者は町へ行くことができない。
またある日、暮らしの頼みの井戸が涸れてしまう。
こうなると、ここではもう暮らせない。
父娘は家を捨て、よそへ移ろうと決心する。
荷車に生活用品を載せ、使い物にならなくなった馬をひいて、暴風の荒野へと旅立つのだ。
父は片腕がだめなので、荷車は娘が喘ぎ喘ぎをひいていく。
そうして丘を越え、風の中へと去って行く父娘。
ところが、なぜかまもなく引き返してきてしまう。
丘の向こうの荒野に、父娘が何を見たのか。あるいは何をどう思い直したのか、ついに明かされなかった。
二人はふたたび家で日々を繰り返すことにするのだ。
ある日、ランプが消えてしまう。
オイルはあるのに、火が付かない。
次には、かまどの火種が消えてしまう。
さながら馬が荷馬車をひくことを、そして食べることをやめてしまったかのように、井戸が水を、ランプが火を、かまどが火種を、といった具合に、あらゆるものが次々に活動を『やめて』いく。
その不思議に、娘は父にこうつぶやいている。
「いったいなにがおこっているの?」と。
さて、映画はこれらの不思議に答えを用意してくれるほど優しくはない。
かつてここに感想を記した『ザ・ロード』のように、わかりやすい希望も提示してはくれなかった。
ただ『ザ・ロード』の終末世界では、秩序が微塵にこわれ、人が人でなくなるほどの精神の荒廃に陥っていたのに対し、ここではストイックにあくまで日常を、して習慣を、つつましやかにこなそうとする健気があるのみである。
セリフも極端に少なく。
ストーリーの起伏も、単純化されて。
それによって高められた寓話性が、奇妙なおかしみを生んでいることにも着目する必要があるのではないでしょーか。
いやなに、
この圧倒的な画面と鉄壁の『間』を目の当たりにしてしまうと、
ましてやニーチェだなんて前情報があるので、ついシャッチョコバッタ観賞姿勢になりがちなのだが、それだけではさすがに疲れやしませんかと。
闇生は、馬のアップの異様な長回しに「なんでやねん」と笑ったし。
ランプのアップの長回しにも「んなあほな」とちょっと笑った。
繰り返し繰り返しながれる、あの悲壮なテーマ曲もそうで。
終盤は、それがはじまるたびに「またかい」と。呆れつつ、そのうんざりするほどの繰り返しこそが、日々なのだなあと。可笑しかった。
日々の自転車通勤だとか、トイレ掃除だとかのBGMにこれをかけたら、と想像してしまったのだ。この曲さえあれば、あなたの日常はそれだけで「ニーチェの馬」です。
それから、
馬をひいて、自らが馬となって荷車をひく娘の献身には、あまりの哀切さがゆえに、どこかおかしみがあったと思う。あんなに頑張って丘を越えたのに、すぐ引き返してくるのだもの。
ましてやあれ、長回しでやってるでしょ。
救いようのない条件のもと、それでも生きることに懸命であるということは、かくも滑稽なことなのかと。
世界が、その活動を『やめていく』なか、なすすべもなく、泣きもせず、ましてや笑いもできずに、生きている。
あたしらって、なんてちっぽけなの。
なんて可憐な生き物なのか。
せめてそれをこそ笑ってやろうじゃないのさ。
ね。
☾☀闇生☆☽
はい。
あなたはだんだんねむくなーる。
ねむくなーる……。
追伸。
素朴でありながら重厚な美術。
そして、小物たち。
その意匠。
その汚しがけ。
皿や、バケツや、荷車。
テーブル。
塩を入れた壺。
これがまたいいのだ。
おそらくは徹底したこだわりが、それらを生んでいる。
井戸。
ちゃんと掘ってあって、驚きだった。