「伝統を現代へ」
立川談志はそう言うのだ。
けれど、よく考えると伝統の「伝」に、すでに伝達の意味が込められてあるではないか。
いわずもがな一切は過去へは届かないわけであり。
未来にむけてしか運動しない。
これを読むあなただって、いまここでタイプしているあたしよりは未来だ。
哀しいかな、そっちが現代(現在)だ。
伝統という言葉には、既にそういう意味での「伝」が含まれている。
ようするに伝統の「伝」には「現代へ」の意味があると。
換言すれば、あなたへ、と。
いわずもがなそんなこと、談志は百も承知のはず。
しかしながら、
実際には伝統と言われるもののほとんどが、せき止められた水のごとくに淀み、やがて腐っていくありさまで。
よって現代からすれば、うっかりその腐臭をこそ伝統と呼ぶと、誤解してしまうのであーる。
だから、あえて重ねて強調しなくてはならないというのが、現状なのだろう。
この談志の言葉には、そういう哀しき皮肉が読み取れるのであーる。
では、それをせき止めている物の正体はなにかと。
などと大それたことは、あたしなんぞがブログで語るものではない。
んが、
たとえばこう考えるのですな。
それは電波のようなものだと。
発信機と受信機があって、初めてそれは伝わる。
むろん伝える側に切磋琢磨が必要なのは当然至極だが、それも受信機が受信機として機能していてこそだ。
でだ、
どうやらそんな「受信」の快感を広めようじゃないかと、談志の弟子志らくが筆を取ったのだな。
立川志らく著
『全身落語家読本』新潮選書
師匠談志はむろんのこと、かつての名人や代表的なネタを解析する志らく節が、詳しくも楽しい一冊であった。
しかし実践編としての教科書的パートと、随所に記された「自分ならこう演じる」という志らく案は、残念ながら初心者のあたしにとっては迂回せざるをえない。
んが、
それでもあちこちで腐臭をあげている落語への苛立ちと、愛情とが存分に伝わってくるのだ。
なかでも、目が覚める思いをしたのがネタの解析。
特に「後生うなぎ」のそれ。
これは短くシンプルな噺で、あたしの場合志ん生のでしか聴いたことがない。
以下、古典ながらネタバレで。
昔は橋のたもとなんかで「放し亀」という商売があったんだそうな。
そこではおっさんが亀を売っているだけなのだが。
客は、それを買うなりすぐにそばの川に放してしまう。
万年の寿命があるのを逃がしてやったのだから、客はいい功徳をした、ということになるのだそうな。
まあ、ゲンを担ぐおまじないみたいなものだったろう。
そんな川の傍にうなぎ屋があって。
いつものように亭主が通りでうなぎを割こうとしている。
そこへ隠居風の男が通りかかり、亭主を制して言うことにゃ、
「これこれ、なんと酷いことを」
けれども、生きたうなぎを割くのは、亭主の商売だ。
やめるわけにもいかず、隠居は仕方なくそのうなぎを買いとって、前の川にボチャーンと放してやる。
「ああ、いい功徳をした…」
翌日も隠居が通りかかって、うなぎを買って放す。
その翌日も。
仕入れをサボった日には金魚でもなんでもいい。割き台に乗せて割こうとすれば、隠居が買ってくれるのだ。大きな物ほど、心優しき隠居はカネを出すと。
うなぎ屋は味を占めて、どんどん値をつり上げていく。
ついに欲に狂った亭主は、隠居の姿をみるや自分の赤ん坊を割き台にのせて、包丁で…。
あわてたのは隠居だ。
「なんてひでえことしやがる」
それを制して、大金を払って赤ん坊を買い、前の川にボチャーンと…。
独善的な正義感にかまけてると、ついには人の命をあやめる。
かつて地下鉄でサリンをまいた連中に、この噺を聞かせてやりたい、とは志らく。
それが救済であると固く信じた行動が、結局はこの世に地獄を生んだわけなのだから。
これまであたしゃこの噺のブラックな部分に愉悦してばかりいたが、なるほど、受信機の精度をあげると、そういう観点も得られるのかと。
まさしく「現代に」の一瞬だ。
「伝統を守る」とは、
そういう送受信の環境を指すのね。
☾☀闇生☆☽
よって、
決して、淀みを崇拝することではない。
どうやら、本当に失業する。
無能がゆえの自業自得だ。
それはともかく、
再起とか、
生きるとか、
恋や、出逢いや、
邂逅など、
前向きなことは、すべて不合理である。
そこへいくとネガティヴのなんと合理的に運ぶことか。
呵呵大笑。
☾☀闇生☆☽
ポール・ニューマンの『暴力脱獄』を見ねば。