壁の言の葉

unlucky hero your key

つもりを積む。

 これは「無い、を有る」に変えるすべを会得している人たちにはかなわねえな、というお話である。
 


 落語に『長屋の花見』という噺があって。
 貧乏長屋の店子たちが、大家の誘いで上野の山に花見にいくというおなじみのお笑い。


 酒も料理も大家が用意した。
 いつにない太っ腹なふるまいに店子はみな浮足立つが、どうやら普通の花見ではない。
 実は大家には趣向があって。
 一升瓶の中身はお酒ではなく薄めた番茶。つまりがお茶け。
 重箱の卵焼きとかまぼこは、それに見立てて切ったタクワンと大根のおこうこ。
 敷物の毛氈はムシロだった。
 仕掛けを知ってげんなりと気落ちする店子一同だが、そろいもそろった貧乏人たちである。みんな気が遠くなるほど家賃を滞納している。
 その手前で泣く泣くお花見に付きあうはめにあいなった。


 かくして貧乏長屋の大家と店子ご一行は花の盛りの上野の山へとくりだすのである。
 周囲が本物の酒や料理で盛りあがるなか、彼らは毛氈に見たてたムシロを敷いて、卵焼きとかまぼこに見たてた沢庵とおこうこをかじり、酒に見たてたお茶けでお茶か盛りとしゃれ込む。
 ……とまあ、だいたいこんな筋だったかと。



 これ、気づいたんだけどね。
 大家は自発的に花見を企画しているのね。
 貧乏な店子たちに催促されてしぶしぶ、ではないの。
 大家は自分でお茶けと料理とムシロを段取りして、みんなを呼びあつめている。
 噺の視点は終始店子がわに寄りそうので、大家のケチっぷりばかりが強調されがちだけれど、本当のケチならそもそも花見なんて企画しないでしょうに。
 番茶を何升も煮だしてうすめたり、
 重箱を用意して沢庵とおこうこを盛りつけたりするのだって、けっこうな手間はかかる。
 ましてや、本当にケチんぼうなら何年もの家賃の滞納をゆるしてもこなかったはずだ。


 たとえば暑いさかりに「暑気払い」があるように、大家は長年の貧乏で染みついてくる辛気くささを払っちまおうとしたのではないかと。
 まあざっくり言っちまえばアイデア起爆剤は「ぱーっといこう」といった気分だったのにちがいない。
 なんて優しいんだろか。大家ってば。
 けど、本当に大判振る舞いしたんじゃ面白くないし、だいいち『粋(イキ)』ではないと。


 無いけど、有る。


 料理も酒もくっちまえばあとは翌朝ハバカリに流れちまうだけのものではないか。
 ならば、である。
 翌日以降もついてまわる貧乏やらの不幸をやりくりするのに使えるのは腹の肉ではなくて、心の持ちようだろうと。
 無い、無い、と嘆いていたって物質的に無いものは仕方がない。
 「武士は食わねど高楊枝」じゃないが、卵焼きを食べたつもり、酒を飲んだつもり、といった「つもり」の美学の積み重ねでもって日常はいくらでも豊かになるし、おもしろがることができるのではないか。


 ……と、
 そんな大家の美学が当の店子たちには通じないという、ズレ。
 そのギャップが笑いどこである、という解釈でこのネタは演じられることが多いらしい。
 言い換えれば店子たちは被害者であると。
 んが、
 それは違うんじゃねえか、と異議を唱えたのがかの立川談志であった。


 店子たちはむしろ共犯者なのではないかと。大家の企てのね。
 企画・原案・主演から小道具その他もろもろを大家がつとめているが、店子たちもまた共演者であると。
 大家のしかけた洒落っ気に内心、
 「いいねえ。おもしろそうじゃねえか」
 と、のったのだ。
 じゃあ噺のなかの観客はだれかというと、上野の山で本物の酒食に興ずる周囲の花見客だろうと。
 *1


 「お。見てみろよ、あれ」
 と周囲は貧乏長屋の「つもり」で固めた花見を指さし、笑い、囃し立て、そのうちに気付いたことだろう。
 へええ。洒落てンねえ。
 あっちのほうが粋なんじゃねえかと。


 『だくだく』という噺もある。
 やはりこれも貧乏人の話で、
 部屋は借りたが調度品がない。
 なので箪笥やら掛け軸やら鴨井の槍やら、ぜんぶ絵に描いて貼って「有るつもり」で生活している。
 そこに泥棒が入る。
 何もないので泥棒はお宝を「盗ったつもり」で帰ろうとするのだが、という噺だ。
 この暮らしっぷりもまた、談志に言わせれば洒落ているというやつだ。
 

 そう考えると『青菜』の植木屋の奥さんもまた、粋な共犯者ではないのか。
 得意先の隠居夫婦の粋なやりとりに感化され、それを見よう見まねで再現しようとする植木屋。
 自宅に客をむかえ、主人となって、奥(台所)にひかえる妻とのやりとりを真似ようとするのだが、いかんせん植木屋の家は一間だ。
 しかたなく押し入れを奥の間とみなし、そこに妻を控えさせて……。


 この噺は演出として、奥さんは演じられない。*2
 なので想像するしかないのだが、旦那の子供っぽいあそびに付き合って押し入れに隠れる奥さんは、密かにはしゃいでいたのではないだろうか。
 口では不平も云ったろうけれど、旦那の洒落っ気にのってあげた。
 そう考えると、かわいいよねえ。この奥さん。
 で、生活に遊びのあるいい夫婦だと思う。


 ともかく、
 ここでも「無い、を有る」として遊んでいる。
 隠居の家でご馳走になった柳陰という冷酒もなければ、鯉の洗いもない。
 ぬるい濁り酒とおからを、それらの「つもり」でたのしんでいるのに過ぎない。
 無いはずの奥の間にひかえる妻とふたり呼吸をあわせ、たったひとりの客人を饗応するような、そんなウチの「つもり」を遊んでいる。




 話を、転がす。




 「無い、をある」として愉しむ。
 その視点を海外にむけようか。
 思いあたる代表的なものはチャップリンの演じた放浪の紳士である。
 遭難した雪山でブーツをナイフとフォークでいただくのは、貧乏を越えた「飢え」からのものなのでそれには当たらないかもしれないが。
 あのキャラクターの着想の原点に、似たようなものを感じるのはあたしだけでしょうか。




 転がす。
 転がす。



 
 神話や伝承、伝説にのこされる超常現象なんかにも、ひょっとすると「無い、をある」として愉しむ。ようするに物質的「喪失を」心掛けで「満たす」スピリットが働いたものが混じっているのではないかと考えたのね。 
 以下の連想はちょうど『ダ・ヴィンチ・コード』を観ていたからなんだけれど。
 無学ものの妄想として……。


 「無い、を有るに」をふまえると、
 イエスがカナの婚礼で水をワインに変えたなんて話は、まさにそれだったのではないかと。
 ワインが切れる前も後も、宴の華やぎは変わらなかったという、要はそーゆーことではないかと。
 婚礼のめでたさはワインのあるなしにかかわるものではないと。
 たとえ水しかなくても祝福する心が寄り集まれば、それはワインの振舞われた宴のように楽しめるのだと。
 そういう方向性で説教が繰りひろげられたように想像できる。


 これがさらに高度になると、
 ワインとパンだけの質素な食事が、血と肉を伝授する崇高な儀式にもなり……。


 ほかにもイエスの奇跡としては、パンの奇跡といわれるものがあって。
 問題は実際にパンが物質として人数ぶん出現したかどうかではないよね。
 多くの人々の空腹感による不満を解決したというところがミソなのだと思う。
 無い、を満たしたのだ。イエスは。


 あるいは有名なラザロの復活。
 平たく言えば、死者をイエスが生き返らせた、という伝説なんだろうけれど。
 これも、近しい者の死による喪失感を、イエスが解決した話と考えることはできまいか。
 あたしらはよく「彼は今でも心のなかに生きている」と死者を偲ぶことがあるけれど、ラザロの復活は近しい者の心のなかになされたのではないのか、と。
 喪失感を満たしてあまりあるほどに。
 まるでそこに生きて現れたかのようにありありと。


 話がでかくなりすぎたようで。
 ちょっと戻そうか。


 山本周五郎の原作で黒澤明が映画にした『どですかでん』。
 敗戦後のスラム街にくらす人々の群像劇なのだが。
 ここにホームレスの父子が登場する。
 父は働かず、物乞いはもっぱらおさない子の役割。
 父は日がな一日「こんな家を建てたい」と妄想とウンチクにあけくれ。
 子は夜な夜な繁華街の裏口をたずね歩いて物乞いをしている。
 子があるとき、火を起こしている。
 かならず火を通してから食べなよ、ともらったシメサバを煮ようというのだが、父はそれをとがめた。
 シメサバは火を通しちゃだめだ、とまたも得意のウンチクだ。
 はたして子はシメサバにあたってしまう。
 もがき苦しみつづける子のかたわらで父はただおろおろするばかり。
 それでも彼は物乞いもせず、買えもしない新築への妄想に耽って、ついに子を亡くしてしまう。


 落語のなかの長屋の連中や、イエスの奇跡は「無い、をある」として満たす「つもり」の美学である。
 そこに遊びがあり、豊かさがある。
 どですかでんのホームレスは、単に現実逃避の無いものねだりである。
 住み家に使っているのは空き地に捨てられた廃車なのだが、それはそのまま朽ちた廃車のままであった。




 余談。
 「無い、を有る」として愉しむ。
 思うに、その極北が『オタクの抱き枕』ではないかと。
 「タクワンを卵焼きに」よろしく「クッションを嫁に」しちまう。
 不在を実在の代用とするどころか、それで満ち足りてしまうのだから、それはもう、すんごいぞと。
 このポテンシャルがまかり間違って仏道にむかえばだ、観想念仏でありありと仏や如来とまじわり、法悦に至るようなものではないのか。
 ないのだが。
 無いものねだりのレベルではないんだもの。そこで完結してるんだもの。
 もっとも、談志の云う「江戸の風」は、そこに微塵も吹きやしないのだけれど。



 追記。
 志ん生がやった噺に、和歌三神というのがあった。
 乞食が三人、土手の下で雪見酒をしていて、
 こりゃ風流だ、と通りかかった隠居が酒をふるまう。
 そのお礼に三人は和歌のパロディを披露するという。
 貧しさはあるがそれはひもじさではなく。
 乞食たちの知性といい、あそび心といい、和やかなある種の豊かさが感じられる。
 なんか通底するものがあるよね。





 無い、を有るに。
 これさえあれば不仕合せになんかにはなりようがないのではないかと思ふ。
 



 ☾☀闇生★☽

*1:「大家のわがままに付き合わされる店子たち」という似た構図を持つ『寝床』との大きな違いはそこにあるのでは。『寝床』の店子たちは明確な被害者でしたな。

*2:オチのセリフだけは奥さんとして言ったかな……。