たまたま眺めていた教育テレビ、新日曜美術館
 ハンマースホイの誰もいない風景に、惚れた。
 で、
 思いたったが吉日だ。
 いまから、急ぎ、見に行ってくるよ。


 ☾☀闇生☆☽




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 で、見てきた。
 街に用はないし、
 街も俺に用がないというので、逃げるように帰ってきたよ。


 付け足しで、書くぞ。
 『ヴィルヘルム・ハンマースホイ展-静かなる詩情-』
 国立西洋美術館


 新日曜美術館で紹介された、一枚の絵。
 誰もいない白い部屋を描いた一連の作品に、不肖闇生は魅せられちゃったのよ。
 なかでも、『陽光 習作』と題された1906年の作品。
 これにやられたのだな。
 白い窓と、閉じられた白い扉。
 射し込む外光を内壁がやさしく反射させている。
 ために、大気が白く濁って、景色の輪郭はあいまいだ。
 窓の外も、ぼんやりと。
 室内には、椅子も机もなく。
 ただ光の窓枠だけが、白っぽい床に落ちている。


 解説されて、気づいたのだが、このドアには取っ手がない。
 ばかりか蝶番も見当たらない。
 そこに息苦しさを感じるという感想もあるようだ。
 が、闇生にはそれはなかった。
 静謐で少し哀しいが、あたたかいやさしさに抱擁されているような。
 そんな感覚に陥った。


 彼の絵は、似たようながらんとした部屋に人物を置くケースも、多い。
 けれど、大概の場合、人物は鑑賞者に背を向けている。
 複数の人がそこにあっても、彼らは決して視線を交わしはしない。
 おそらくは、邪魔だったのだと思う。
 ハンマースホイにとっては、視線が。
 否応もなく視線は直接的な意味をそこに生み出してしまうからだ。
 その『直』な、
 しいて言えば『露骨』な、
 というある意味『野暮』を嫌ったのではないかと、感じた。
 生々しいと。
 きっと潔癖でシャイなんです。この人。


 ものすごーく、下世話なたとえをすると。
 知人にアルバムを見せられて、どの写真もどの写真も、めくれどめくれど被写体がこっちを向いてること、ありません?
 ひどい場合は、どれもこれもピースだかきゃろーんをしてる。
 うんざりだ。
 自意識ばっかで。
 せめてさりげない日常の一瞬を、
 つまりは横顔を、
 もっといえば背中を見せろと。
 あるんだ、自分の子供の写真が、ことごとく正面からのピースってのが。
 残念なのは、カメラにはそうするものだと刷り込まれちゃってる表情ね。
 あれはいただけない。
 だけでなく、哀しすぎる。
 映画でもエロDVDでもさ、役者の自意識を見せられると、萎えるでしょ。
 

 ま、それはいいか。
 話がそれちゃったよ。


 ハンマースホイだホイ。
 おそらくは人物の表情すらも、うるさく感じたのだろう。
 少なくとも、顔に本質はないと。そう思っていたのか、どうか。
 とにかく邪魔だった。
 その徹底した無駄の追放は、一連の部屋シリーズで、椅子の脚まで省略してしまっているほど。
 それによって不安定感を表現した云々という解釈は、あたしには腑に落ちない。
 ドアの取っ手も、蝶番も、
 単に邪魔だったと。
 そう感じる。
 彼は街を描いても、行き交う人を消し去った。
 ために、人はそれを「誰もいない街」だなどと呼んだ。
 んが、闇生にはその解釈にもまた違和感をおぼえるのだな。
 

 インターバル撮影、というのですか。
 定点カメラで、街の二十四時間を一分に圧縮して撮影する手法がありますな。
 そこを行く人々の動きは加速して、溶けて、流れて。
 ときより立ち止まる人だけが、そこにつかのま残って。
 あれの速度をさらにあげると、人も車も溶けて、いつしか流れる線になる。
 現実には不可能かもしれないが、仮に撮影スピードをさらに上げ続けたならば、やがては人もその線も、消える。
 そして静物である建造物だけが、そこに残る。
 なぜなら、止まっているから。
 彼の絵には人がいないのに、
 また、人が居た痕跡を強調してはいないのに、
 (飲みかけのコップだとか、たばこの吸い殻だとか)
 そこに人の営みがにじみ出るのは、きっとそういう視点からなのではないのかと、あたしゃ思ったのだ。
 
 
 人のいない街に、溶けて流れて消えた人々を、感じたのだもの。


 司馬遼太郎は、こんなことを言っている。
 芸術観賞とは、
 そしてその原型とは『人を見る』という行為であると。 
 たとえばカフェテラスでお茶を飲みながら、往来をなんとはなしに眺める。
「あ、あのおじいさん、道に迷ったのかな」
「あの子供、お母さんがケータイに没頭してるから、退屈してるんだな」といった具合に。
 それが、鑑賞のもとだと。


 ならば裏返せば『人を見せる』ということが創作なのだ。
 たとえ静物画でも、その静物を画家がどう感じたかを、人はしらずに感じているもので。
 画家の「人」を、見ているもので。
 てなわけで、
 ハンマースホイの一連の『人のいない』シリーズは、彼の世界へのまなざしそのものなのである。
 それは、先にもふれたように、高速度カメラの視点だ。
 ただし、それには条件があって。
 人の流れを溶かし去って、静物だけを見つめるには、観察者(カメラ)もまた静物でなくてはならないという。
 ご存じのとおり、われわれは日々流れている。
 肉体的にも、絶え間なく代謝をつづけて、一瞬たりとも止まらない。
 細胞は、一年も経たずにそっくり入れ替わってしまう。
 それは川の流れのようなもので、川は同じでも、流れている水は絶えず入れ替わっているように。
 この流れを止めるということが、すなわち『死』。
 死ぬとは、止まるということなのだ。


 無駄を省きつづけて彼が勝ち取ったのは、そんな死者の視点だろう。
 よって、『陽光 習作』では、ドアの取っ手すら省いてしまった。
 なぜならそんな目を持つ者にとっては、居心地のよい部屋の究極形とは、棺にほかならないわけで。
 そこでは止まっているものこそが、すべて。
 すべてが、止まっている。
 さながら母胎に宿った生命が、その安住の不滅を、永遠を、信じて疑わないように。
 胎児にとって一秒が永遠であるように。
 ようするにハンマースホイは、心優しき死者の目を持つ画家なのだ。
 繰り返す、


 静謐で少し哀しいが、あたたかいやさしさに抱擁されているような。


 闇生は『陽光 習作』に、母胎としての棺を、感じたのであった。







 ☾☀闇生☆☽


 新日曜美術館
 BGMとナレーションもいいんですよね。
 あの静かなひとときは、うるさいCMなんかに遮られたくない。
 あ。
 展覧会は、12/7までだそうです。