『光陰矢の如し』展。

よく晴れた午前。
森林系バスロマンで朝風呂をかましたあとアパートの手狭な通路で愛車のオイル交換をしておく。
片道20㎞の現場通いにネをあげているのか、ここのところすっかりかかりの悪くなった我がToday f(AF67)号だが。そのねぎらいの意味でボディもお掃除してやった次第。
花粉が積もっていた。

して午後、
今日こそはと『東京アートミュージアム』に足を運んだのだ。
オイル交換して、
身支度して、
さあ乗るぞと思わせておいて、
まさかの放置プレイ。
ウォーキングで仙川を目指すあたくしだ。
1時間半。

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『プラザギャラリー30年の軌跡
写真展 光陰矢の如し』

企画の内容もろくに調べないままに、ともかく入館す。
目当ては、安藤忠雄の手掛けた空間に身を置きたいという、その一念であるわけで。
入場料を払うべく500円玉を置いたそのカウンターに並べられたチラシでやっと、この日は写真展なのだと知ったほどどある。

なんせ出し物を宣伝するポスターひとつ貼り出されていやしない。
どころか東京アートミュージアム自体、表札も目立たず、いたって地味で、奥ゆかしいたたずまいをしているので、うっかり通りすぎてしまうほどなのだな。
やはり、景観への配慮とかいうやつだろうか。


スタッフの方によれば、出品アーティストたちの写真集が、通りを挟んだ向かいの建物で販売されているという。
どうやら、それがタイトルにある『プラザギャラリー』なるものらしい。

出品作家は12名。
都市の地下水路にこだわる作家(白汚零)もあれば、デジカメの保存データを一旦破壊してからプリンター出力してみせた作家(鈴木秀ヲ)もあり。

吹き抜けを貫く階段の終点には、モニターを設え、動画とオブジェと音をもってインスタレーションを試みる作家(五井毅彦)もあった。
この作品の音楽が最上階から館内に降りそそいでいる。
音階や均等なリズムからは逸脱した音(Noise)のコラージュ。そいつが打ちっぱなしのコンクリート肌に反響して 、明かりとりからの外光や、窓に切り取られた街の断片や他の作品と相まって、実に面白い効果を生んでいた。

音の出どこが吹き抜けの階段の終点なものだから、とどのつまりトリでありオチなのであるからして期待値は階段を上昇するにつれていやが上にもたかぶるという仕掛けだ。
けれど、たどり着いたそこに用意されたオブジェも動画も、正直つまらない。
モニターの中は日常の断片動画とそこに重ねられた言葉(テロップ)の連続で、動画が、オブジェが、とりわけ言葉が、音に負けていると感じた。
他の作品との相性が良かったぶん、負けが際立っていた。

音だけの素材で、聴きたい。



全体として気付いたこと。
『人』を撮った作品が、極端に少ない。
示し合わせたかのように『人』がいない。
これは時代、世代的な傾向かとも思った。
が、プロフィールをあらためると、年代は幅ひろい。


街角で人を観察する。


つまり『人』への興味。
それが芸術の動機の根元ではないのか、というようなことを司馬遼太郎がどこかに書いていた。

たとえ風景画、静物画であっても、それをそういう風に描いた、見た、あるいは解釈した作家の『人』を、鑑賞者は見ているのだろう。
見たいのだ。人を。
あるいは鑑賞者が自身を投影したがるのか。

と、確認した上でやはり思ふ。
『被写体に人がいない』と。
これは偶然なのか、どうなのか。
12人もいて。

ハンマースホイは人物を描くことの少ない画家だったが、『不在』を描くことで『在』を意識させた。
いわば『不在の在』である。


http:// www.tokyoartmuseum.com
www.plaza-gallery.com





向かいのプラザギャラリーで、
奈良原一高『1万5千回の夜の間に』を購入。





闇生