壁の言の葉

unlucky hero your key

伝われ。

めちゃくちゃでごじゃります。


 
 カランコロン♪


 先日立ち寄った雑貨屋で―。
 ドアチャイムを鳴らして足を踏み入れると、そこに先客が6、7人。
 狭い店内に立ち尽くしていた。
 ぎろり、
 一斉にこちらを振り返る。
 んが、あたしを見るやなぜか落胆し、すぐにまた皆同じ方向に向き直った。


 とりあえず、すまん。
 なんだか期待にそえなくって。


 一同の視線の先には女店主。
 緊迫した空気のなか、電話でなにやら応対をしている。
 商品を物色しつつ、いったい何事だろうとあたしは聞き耳を立てる。
「いいから、すぐ来いって(言え)」 
 客のなかの女が、店主に言う。
 すこぶるつきのご立腹ではないか。鼻をふくらませ、
「すぐ来いって言って、ガチャンて叩っ切ればいいんだよ。あたしならそうする」
 息巻いておられる。
 いまどきガチャンと叩っ切れる電話も珍しいが、店主はそれに相槌を打ちながら、先方と話している。
 先方は執拗にこの店の住所を訊きなおしているようで。
 そのたびに客の女たちが舌打ちし、
「ったく、これだからお役所仕事はっ」
 口々に罵る始末だ。
 どうにもこうにも、おだやかでない。
 電話の向こうは、警察らしい。


 やりとりをまとめよう。
 事の顛末はこうだ。
 近くの公園で、見知らぬおばあさんが転倒した。
 幸い怪我もなく、当人も大丈夫だと言い残して自宅に帰っていった。
 店を埋めていた先客たちはその目撃者で。
 無事だとはいうものの、老女が顔からぶっ倒れるという豪快な光景に、彼らは心配になった。
 心筋梗塞とか、脳梗塞とか。
 バランスを崩したのはその手の予兆なのかもしれないし、はたまた、転倒の影響が遅れてでてくる場合だってあるじゃないか、と。
 少なくともバナナの皮にボケたんじゃないんだと。
 いまどき珍しい、積極的で強い優しさである。
 それを愛とも言う。
 言おう。
 しかし、たまたまケータイを持ち合わせていなかったために一同は、最寄りの商店に駆け込んだのだった。
「すぐケーサツ呼んで」
 と。


 当然、電話の向こうはおばあさんの容態を詳しく訊くわけで。
 すると、そのたびに彼らは憤慨するのだ。
「だ、か、ら、何度も言ってんだろ。いいから早く来ればいいんだって」
「一応は無事だって言ってんだけどぉ、一人暮らしみたいだからぁ、って」
「っぁあああ、もおおおっ」
 あたしゃ転倒現場を見ていない。
 だから、彼らの言葉からしか、事態を把握することができない。
 その点では、電話の向こうの警官と立場はおなじである。
 が、彼らは事件を目の当たりにしている。
 その印象が強烈だったあまりに興奮し、一点の迷いもなく非常時と断定した。
「来い」
 で、警察が出動すると。
 ここはひとつ、させるべきだと。
 しかし、それではいかんせん第三者には何がなにやら伝わらんのだ。
 彼らはライヴの印象が強すぎるから、
 そして事実の絶対を信じて疑わないから、たやすく先方も共感すると思い込む。
 伝わる、と。
 くわえて持ち前の公僕嫌いが、納税者としてのお客様化をうながすわけで。
 ましてや、
 事はおばあさんの安否という大儀が、背中を押しているわけで。


 義憤。


 報告をぶっきらぼうにさせる。
 だって客だもの。と伝える労力を惜しみ、先方に理解力を強いる。
 理解して当然だろと。
 厄介なのは、その知らず知らずの自己暗示だ。
 そいつが主観と客観の見境を溶かして伝達を、そして表現を、サボらせてしまう。
 つーかーになれと。
 あ、うん。だろと。
 相思相愛だぞと。
 ストーカーの如くに。


 ましてや、事態を知らない店主の口を通してだなんて。
 その不合理性は子供の頃、伝言ゲームでさんざん思い知っているはずなのに。
 実際、話が見えてくるまで店主も、あたしも、警察も時間がかかった。
 警察がおばあさんの容態やらを繰りかえし確かめたのには、理由があるはずで。
 救急車の出動の必要性と、
 警察が介入すべき事態なのかの判断。
 (軽率な介入はかえって{いわゆる}市民側が問題化する)
 事件性があるのかどうか。
 あったとしても規模はどの程度なのか。
 加害者がいるとすれば、彼は今どうしているのか。
 逃走中か。
 ならば、早急に手配が要る。
 はたして複数のパトカーが回転灯を連ねて急行すべき緊急事態なのかどうか。
 なんせ110番をするくらいだ。
 誰かに突き飛ばされたとか、クルマに跳ねられたとか。
 そのあたりが相場と決まっているのに、よくよく聞くと自らコケたと。
 でもって無事だと。
 自分で歩いて帰っていったと。
 なのに110番。で、
「来いっ」 
 怒っていると。
 なんかめっちゃ怒っていると。
 そりゃあ聞きなおすわな。
 コケたけど、今は大丈夫なんですよねと。
 とりわけ『大丈夫』の加減を。


 だいたい「来い」でいちいち警察が出動していたら、かえって物騒ではないか。
 イタ電も少なくないはずだし。
 そんなことでは、いざというときの事件に対処できなくなる。
 それに、そんなに簡単に民事に介入されてもね。
 うるさいでしょ。
 事件性もないのに。


「出た。お役所仕事っ」
 電話中、彼らの憤りは増すばかりで、
「そういえば、こないだも痴漢にあったとき」
 交番に報告に行ったら、『なんだか』感じ悪かったと。
 論点はスクランブルエッグと化した。
 確かに、警察にも問題はいろいろあるだろうさ。
 それを自覚している警官だっているだろうさ。
 そして、その『サービス』を、民間のたとえばユニクロのような接客態度と比べては、警察もたまったもんじゃないだろうさ。
 民間は『利』を中心に動いてかまわんが、彼らは『理』でうごかんと問題となるわけで。
 しかし、そんな先入観を抱えたまま伝達しようとするものだから、ますます伝わらなくなるわけで。


 いつ。
 どこで。
 だれが。
 何を。
 どうした、こうした。
 どうされた。

 
 緊急時の伝達って、いま学校で教えてんのかな。
 練習させてんのかな。
 冷静な客観性をもつことが、もっとも合理的に事が運ぶのだが。
 少なくともこのケースでは、訴えどころは警察でないことは確かなようで。
 その地域の民生委員とかではないのかな。


 『つーかー』は、双方の共有するイメージが媒介する。
 けれど、その伝導率の高さは、決して一朝一夕にできるものじゃない。
 ばかりか、完成した後もメンテナンスが不可欠なのである。
 たとえば絆なんてものは、
 それを拠りどころとして、築かれるものなのだ。


「愛は冷めやすいものだから、
 ときとぎ温めあったり、
 ゆさぶったりしなければならないの」


 たしか、マリア・カラスの言葉だったと記憶する。
 ならば友愛も然り。
 ひとりよがりな「あ、うん。」にかまけてると、いつの間にか錆びついていることも、しばしばで。
 あらためて引いて考えてみると、こんな110番と同じことを、日常でやらかしていたりするもので。


 「どーして分かってくんないの?」
 なんてね。



 その愛、
 ときどきゆさぶってます?
 ほったらかしにしてません?


 ☾☀闇生☆☽