壁の言の葉

unlucky hero your key

実況せよ。

 あたしゃゲームが下手くそだ。
 けれどゲームで遊びたいという気持ちは、つねにあって。
 丸一日どっぷりとゲームに没頭したいという欲求。
 それがおっさんになった今もある。


 たとえばバイオハザードのような死にながら覚えていくというスタイルが苦手なので。
 たとえHPの残量が1しかなくとも、そしてその状態でボス戦がおっぱじまろうとも、どうにかして生き延びたいと。どーか生き延びさせてくれと、切願する。
 足掻けるだけ足掻く。
 なのでかえって冷静になれず、空しきボタン連打に終始してあえなくお亡くなりとなる残念なレベルだ。
 ああどうせ駄目だから死んでやり直そう、という潔さがあたしにはなかった。
 死んだら凹むのよ。マジで。
 で、ひきずるのよ。
 だもんで怖くて進めなくなるのであーる。
 

 PS1の頃、そんなことを云うとゲーム好きの後輩に笑われた。
 とりあえず死ぬところまで進むものですよと。
 敵情を偵察するために一度死にに行くのですと。
 そうしてダンジョンの形状なり敵の出現ポイントや数、攻撃パターンをあたまに入れると。 
 で力尽きて死んでからがやっと本番なのです。リセットしてセーブポイントから。


 そういう思考に『ズル』を感じてしまうのが愚かでダサいことは承知している。
 けど、生き返りというゲームならではのシステムに、当時は萎えた。
 生き返りを恥じた。
 あたしゃそんなアホである。
 それがのちにフロムソフトウェアの『シャドゥタワー』にのめり込んでしまうとは思いもよらなかった。
 けれど、そうはあってもやはり戦闘の仕方は同じ。
 コケの一念。
 ここで生き残ってもボス戦を凌ぐ量の回復薬がないからリセット、というのができないのだな。




 失敗しながら学ぶという能力が、欠如していた。




 主人公視点でのゲームをFPSFirst Person Shooter)というらしい。
 対してその主人公を客観的に視界に納めて操作するのをTPS(Third Person Shooter)という。
 一人称と三人称といったところだろう。
 この三人称視点のように自身を客観的に操作する感覚というのは、実人生のコツになるのではないかと思う。
 自身の姿を後方から俯瞰する。
 状態や能力を把握する。
 怪我の回復や必要な装備、食料や備えるべき資金、仲間、職能というものを客観的につかむ。
 私心をいったん置いて自己をそんな風に見ることができていたならば、あたしの人生もっとポジティヴな展開にできたに違いない。


 喰いたいから食うでも、したいからする、でもない客観的な優先基準がおのずと決まっていくだろうし。
 それら必須アイテムの入手条件や環境はプレイヤーによってそれぞれに異なっておるわけで、平等ではない。
 自力で変えられる環境や条件もなくはないだろうけれど、それも人それぞれだし各自の腕次第だ。
 絶対的なのは、生き返りは不可能でリセットもできないということ。
 そして制限時間もランダムに訪れる。
 自分だけの、そして自分にしかプレイできないゲーム。
 攻略法も自力で探す。
 与えられた諸条件のなかで、それぞれがそれぞれの『自分』を操作して幸福へと運ぶ。
 恨みっこなし。
 他の好条件のゲームへの嫉妬なんか時間の無駄だろう。


 そう考えると、やはりシミレーションしていると気づくのだな。ゲームで。人生を。条件を変えてね。
 ゲーム好きからすれば当たり前のことなのに違いない。
 けれどゲームが、そして人生がへたっぴであるがゆえに、完全無欠なおっさんになった今になって気づいた次第。
 はたして気づくのが遅かったのか、どうか。





 この世というゲームにデザイナーなりプログラマーがいるとするならば、
 あたしのゲーム実況はどう見えているのだろうか。
 チャンネル登録とグッドボタンは押してくれているのだろうか。





 ☾☀闇生☆☽