坂本龍一とDavid Toopの共演、
おそらく即興だろうこれを観た。
MODE 2018: Ryuichi Sakamoto + David Toop / Yves Tumor / Curl
非常に濃密で、演奏者・観客ともに集中する50分間ノンストップ演奏。
このプログラムは海外ならではのものなのかな。
もしも日本での催しだったとしたら、やっぱサービスで『戦メリ』くらいはやっちゃうのかな。
あるいは途中にピアノでメロディアスなパートを放り込んでくるとか。
この演奏にじっとスタンディングで集中し続ける観客もすばらしいと思う。
ひと昔まえに『ライディーンやれ!』と騒いだ、YMOリアルタイム世代はどう思うのか。
いわゆる『YMOチルドレン』より上の世代ね。単なる流行として聴いてた人たち。チルドレンたちはコンサート行くほどお小遣いないし。幼いから遠出できないし。
てか、あのとき騒いだ連中や作風をがらりと変えた『BGM』で離れていった人たちは、いまこういうの観てないだろうなあ。
立川談志の音源で、観客のひとりが「落語やってよお!」と騒ぐのが残されている。
「やってんじゃねえかよ」と受けて談志が何をやってほしいか訊くとその客は「古典!」。
たぶん談志が古典を高座にかけるのを減らしていたころだったのだろう。
たしかにそういう時期があった。その頃のことを調べると、多くのファンが談志の古典を熱望している。
唐突に客席から声をあげた人も、おそらくはそういうファンのひとりで。
談志はこれに、俺の領域に土足で踏み込みやがって、と憤り「帰れ」と一喝したのである。
客と演者がなれあうことを嫌った談志ならではのエピソードなのだろう。
けれど、思うことがある。
黒澤明が生前に日本と海外のマスコミの違いについて証言している。
日本だと「また七人の侍みたいのを撮ってください」だとか「今作は用心棒と比べると」などと必ず過去作と比較する。
けれど、海外ではそんなレベルの低いことを言うやつはいないと。
『七人の侍』は七人の侍として、その時に生まれるべくして生まれたのだから、故意に同じようなのを作ろうったって、そうはいかない。
同じような子をもうひとり生め、と言われるような気分だったろう。
談志の古典もまたおなじ。演目は同じでも演じるたびに違う子を生んでいる。
黒澤のカラー時代のウケが日本では一般に芳しくなく、海外ではそれはそれとして評価される理由が、そのあたりにあるかと。
ともかく、濃密です。
ビジュアル・アーティストが映像効果をしているのが、ちょっと目障りだったかな。あたしとしては。
もちょっと引いた絵もほしかった。
プロフェット5を弾くキョージュを久しぶりに観ました。
左手の甲に見えるのはTatooですか?
デビッド・トープ。素晴らしい。
でんじろうかと思った。
音、というものの感触をじっくり味あわせてくれます。
日常にもあふれているはずだけど、対峙して鑑賞することのない音たち。
たとえば紙をまるめる音とか。
これを観て気づいたのだけれど、
たとえば『紙』が生む音、つまり丸めたり、その丸めたのが弾力で開いたり、ちぎったりしたときに出る音というのは、紙が発明される以前にはなかった音だ。
紙が発明されてはじめてそれらの音も生まれる条件を得たわけで。
音を聴くということは、その発生源の物を感じ、思う行為でもあるのですな。
余談だけれど、
石川浩司もSEうまいんだよね~。
生活道具をつかって面白い音をつくる達人。
David Toopとはまるでタイプが違うけれど。
まさかのセッションがあったら面白そうだ。
追伸。
今回は旗ふったり、大書したメッセージを掲げたりされなかったので雑念なく『音』の世界に没頭できました。
約50分です。
ヘッドホンで対峙して挑んでください。
ほんとに小さな音のひとつひとつにまで意識が届いているのを感じましょう。
☾☀闇生★☽