壁の言の葉

unlucky hero your key


 落語とは、業の肯定である。
 そうのたまった談志が、のちにそれを「イリュージョン」とし、晩年には「江戸の風」であるとした。
 この晩年の言葉がおそらくはもっとも分かりやすいと思う。
 その風を感じるための取っ掛かりとして、こんな発言がある。
 『源平盛衰記』のマクラでのひとこと。


「江戸っ子か江戸っ子でないか。どこで決めるかったら、育ちでもなきゃ場所でもないの。ご維新のときにどっち味方するか、それだけ。ご維新のときどっち味方するか。彰義隊の味方するか。薩長土肥の味方するか。心情的にな」


 かつて野田秀樹勘三郎とテレビで対談した時のこと。
 当時、野田は現代演劇作家として初めて歌舞伎の本を書き、そしてその演出をはじめたころで。
 まず考えたのが、どこまで壊したら歌舞伎でなくなるのか。
 そして何が歌舞伎なのかだったという。
 つまりちょんまげで着物を着ていれば歌舞伎なのか。
 歌舞伎役者が演じるから歌舞伎なのか。
 試行錯誤した挙句、七五調のセリフではないかとした。
 代表作『贋作・桜の森の満開の下』を歌舞伎化するにあたって、全編をその規則で縛って書きなおしているとの話だったと思う。


 が、それもどうだろうと思う。

 
 江戸の風。
 歌舞伎もまた、それなのではないのか。
 野田以降、様々な作家が歌舞伎の演出をかってでており、今ではすっかり受け入れられているのだが、その大概の作品が「どこまで壊せるか」を念頭にしていたように思う。
 そして観客も、それを期待していた。
 がそんなもんはすぐに底が見えてしまう。
 いい加減、その手の驚きには観客も食傷してしまって、肝心の歌舞伎ならではのもの。つまりが江戸の風。江戸っ子の了見(価値観)をはらんだ風土が、嗅ぎたいのではないだろうか。
 

 むろん義理人情も然り。
 でいながら粘着の無い職人の気風も然り。


 そこで翻って、落語もまたそうではないのかと談志の言葉を咀嚼してみる。
 談志は数々の名作古典を分解し「古典を現代に」の言葉のもとに新たに構築し直した。
 それを単なる破壊と解釈して真似すれば、軽薄なものに仕上がってしまう。
 壊すだけなら、それが落語でなくなるまでやればいいだけのこと。
 あれは結果として新陳代謝をしたのであーる。
 それでこその伝統芸なのだ。
 野田の考え方をもう一度思い出してみてほしい。
 どこまで壊しても落語なのか。
 何を壊したら落語でなくなるのか。
 着物を着て座布団の上に座って話せば落語なのか。
 舞台が現代ならば落語ではないのか。
 そこに浮かびあがってくるものが、チェスタトンの云う「額縁」ではないのか。
 つまり「絵画の本質は、額縁にあり」の額縁。フレーム。制約である。
 それを談志は「江戸の風」と看破したのだと。
 そういうことだと思ふ。


  








 ☾☀闇生☆☽