シルヴァン・ショメ監督作『ベルヴィル・ランデブー』Gyao無料配信にて。
DISCASで予約していたのだが、Gyaoで見つけて思わずクリック。
以下は、そのネタバレで。
いやあ執念だわ。
驚嘆である。
同監督の『イリュージョニスト』への感想としてここにも書いたと記憶するが、この風刺の精神。
これって頭でできるもんじゃない。
スピリットとして、
ニュアンスとして作り手が掴んでいないと、そうできるもんじゃーない。
古き良きマンガの精神である。
なんせ誰ひとりとして良く描かれることがないのだ。
主人公すらもこれでもかというくらいに容赦なく風刺されていくのだが、紙一重で嫌味にはなっておらず。
ブラックな表現も、どこかカラリとしている。
この匙加減なんだろうと思う。支持されるのは。
まず予告編にあった音楽シーンが冒頭に置かれる。
これにまず惹きつけられることでしょう。
時代説明の単なる象徴としてジャズバンドを置いたかと思いきや、ギタリストの左手の指が三本だ。
となれば伝説的ギタリスト、ジャンゴ・ラインハルトその人を置いて他になく。
などと感心してる間もない。
黒人ストリッパーのダンスに見覚えがあるではないか。
素足にバナナのスカート。煽情的で奔放な振り付け。ジョセフィン・ベイカー。このダンス、漫画的に見えて実はここけっこう忠実に再現してます。
続いて現われるタップダンサーはアステア?
病んだようにうなだれてスタジオでバッハを弾くのはグールドに違いなく。
ようするに、明確にアノ時代というものを示しているのである。
それは二人暮らしの老婆と、その孫の見つめるテレビの中に繰り広げられる時代的喧騒であり。
しかし孫は何を見ても興味を示さず、そして笑わない。
なので老婆はあれこれと孫の興味に探りをいれはじめることに。
ところが、この行為。
年寄りが「孫に笑顔を」と期待してのものに見えて実は、孫が「何に向いているか」のリサーチなのだ。
いや。つまりは同じことなのかもしれないけれど。
色々と試した結果、彼が自転車に興味を持っていることを掴む老婆。
して、三輪車をプレゼントされてはじめて子供らしくはしゃぐ孫。
そこで時間は瞬く間に経って、
いつしか孫は大人になっているという潔い展開となる。
老婆の酷薄なるサポートの元、彼は自転車競技の選手になっているという。
つまり「何に向いているか」は「何で稼げるか」に繋がるのだろうか。
面白いのは、この老婆に名誉欲や金銭欲がかんじられないところだ。
目に隈をつくって、ひたすら自転車をこぐことだけを考え、
いやつまりが何も考えず、
マシーンとなって送る孫の日々を黙々と、そして淡々とサポートするのみである。
二人のコミュニケーションはその一点だけ。
言葉すら、
視線すら交わさない。
喜怒哀楽の振れ幅も、ほとんど無い。
孫が自転車をこぐことに専念できるよう、コーチングはむろん食事からボディケア、自転車のメンテナンスまでたった一人でこなすスーパーおぱあちゃん。
この二人の関係がまことにもって絶妙なのであーる。
涙も、苦労も、葛藤も表現され無い。
つまり孫を支えはするが、又八とオババのようなウェットなものでは、決してないと。
やがて孫はツールドフランスに出場。
ところが謎の組織に誘拐されて海の向こうへと連れ去られてしまうことに。
それを追って海を渡るおばあちゃん。
荒れ狂う大海原を、孫を追ってちっぽけなペダル・ボートをこぎ続けるその遠景。
本来、
狂気ともいえる愛が表現されるであろうダイナミックなシーンだが、やはり彼女は無表情。
彼女をここまでつき動かすのは、いったいなんだろう。
はたして孫への愛なのか。
先行投資してきたカネヅルへの執着なのか。
この、そらおそろしいような奇妙な感触に、鳥肌がたった。
行方を突き止めてみると、憐れ孫は、自転車の闇の賭け試合をさせられている。
旅の道中で知り合った三人組。元売れっ子ボーカルグループとつるんでそれを救出するのだが、そこにもやはり孫への愛情は表現されない。
少なくとも露骨なやつは、無い。
無表情に。
淡々と。
それがなんともいえない深みを出しているわけ。
孫も孫で助けも求めず、
恐怖も現わさず、
現われた祖母にも関心を示さず、
やはり自転車をこぎ続けるのみだ。
マシーンだ。
言葉を極力排したその潔さに改めて敬服。
数少ないセリフのシーンに申し訳程度の字幕が付くが、あれも要らないな。
余計だ。
説明に陥らず、あくまで表現にとどまるこの姿勢。
ごく自然に観賞者の想像力を喚起してくれるのは映画の理想形ではないのか。
老婆に一貫して無表情で通させたのは、けだし英断かと。
そのせいで彼女の吹くコーチングのホイッスルがひき立った。
愛らしいね。
加えて、自転車のスポークで演奏するという、無表情の裏にしまわれた音楽を解する心も感じ取られた。
傑作でしょう。
観ましょう。
追記。
完成度が高いので、いくつか細かいところで気になった。
黒幕の顔が、次のシーンのファストフードの看板のハンバーガーにメタモルフォーゼしていくところ。
絵的に繋げても、意味的には繋がっていない。
おなじようにオタマジャクシの鍋が月になるのも、どうだろう。
犬が通過する列車に吠えるというその性分はいい。
けれど、それを車内からのスローで(まるでマトリックスのバレットタイムのようなノリで)やることの意味も、不可解。
さらに追記。
音楽。機関車の疾走をスネアドラムひとつで表現するシーンがある。
犬の夢。
そういえば昔、ドラムは機関車を、ギターはにわとりの模写が演奏の腕前をみるモノサシだった時代があったと聞く。
それらが身近な生活音だった時代のことだろうね。
ようするに誰もが聴きなれていて、
誰もがその審判員となれる音。
『A列車で行こう』のM・ローチの演奏は、その意味で白眉なのだ。
お手本だね。
コーチ専用車のドライバーが煙草をくわえ直す仕草。秀逸。
肥満したグラミー像とは、いやはや。
そんな徹底した風刺の気風にやられる。芸が細かい。
ちなみに『ベルヴィル』をウィキによれば、この町の背景や黒幕がワイン長者である設定が頷けます。
テーマ曲が耳につくことでしょう。
☾☀闇生☆☽