以下、ネタバレで。
コリン・ファース主演。
監督はデザイナーとして有名な人だという。
あたしゃそういうのにまったくもって疎いので、知らない。
おそらくは、この溢れんばかりの神経質な映像。小物や衣装の細部にまで行きわたる洗練された狂気は、その手の気質によるものなのだろうことくらいは、感じた。
あらゆる物、ひとつひとつに迷いが無いのね。
これでなきゃだめなのっ。んもおぜったいにっ。
という、意固地。
もしくは美学、というの?
グラスひとつ、
シャツのフォルムひとつ、
靴磨きのブラシの形ひとつ。
画面の彩度ひとつ。
そうでなきゃ観られるわけがないのである。
おっさんの、
同性愛の、
それも純愛なんか。
くんずほぐれつ、
というシーンに出くわすのではないかと、闇生は正直、身構えもした。
けれど恐らくはそれを意識的に排除している、はずだ。
性愛、性欲は表現されているけれど、そこで踏みとどまる。そのとどまり加減はひょっとしたらこの映画のミソなのかもしれない。
むろん純愛的な要素が強いからだろうが、回想シーンでなら出せたはずであり。
そんな禁欲的な撮り方ゆえか、どアップがやや多いかな、とまで感じた。それくらいはしゃがないのだ、画面が。
加えて言えば、コリン・ファース様様であろう。
彼あってのこの映画であろう。
題材が題材だけにきっと女性層のほうが、すんなりと観られるはずである。
映画の大部分を占めるのが、最愛のパートナーを失った哀しみである。
けれど、そんな存在に出会えた。共に理解し合って生活できた。
という、その時点ですでに仕合わせ者ではないのか。
失った、ということは、持っていたということの証左だ。
持つ、ということは、いずれ失うという絶対条件と引き換えだ。
哀しみとは、仕合せが立てた『音』である。
客観へと旅立つ仕合せの、その主客をスイッチする音だ。
汽笛だ。
産声だ。
音は残り、仕合せという状態は去っていき。
おくれて音もまた、いずれ余韻を残して減少していく。
必ず消える。
そうしてようやく、去ったのが仕合せのひとつだったのだと自覚できるのであーる。
子はいつも、その母の瞳のなかに。
しあわせは、哀しみ側からの眺めのなかにある。
ぽちっとな。
☾☀闇生☆☽