こんな、事件になるほどのトラブルは稀だとして。
少なくは無いはずである。あの確認作業への苛立ちを覚える人は。
そうと知ってすこしほっとしてもいるが、まあ致し方もないと。
いまだにいるんだなあと。
人対人、というしちめんどくさいコミュニケーションの省略も含めての『マニュアル接客』であろうし。
顧客、経営側双方がそこに生じる利便性にかまけてもきたわけでしょ。実は。
『ただの客』と『ただの店員』という抽象性がらくちんなのだ。あたしたちってば。
てっとりばやいんだ。
そこに個人情報がわんさとつぎ込まれて、氏素性から私生活、家族構成、恋人、趣味、職業まで知りあって互いのプライベートにまで踏み込む仲というのも理想的ではあろうけれど、現代ではまあ疲れるわな。
ジャガイモ買うだけで「あらあ、お宅今晩肉じゃが? え? またカレーライス? 好きねえ」「そういえば次郎ちゃんの入試どうだったの?」「少し肥ったんじゃない?」な〜んて笑いあう仲も、昭和的なぬくもりある光景だろうけれど、ほどほどにしときたいわけだ。
漫画の中だけで懐かしみ、憧れていたいと。
しかしまあ「見ればわかるだろ」か。
あれは店員一個人への証明作業ではないのにね。
店としてはあとあと何かしら問題が起こった際に、未成年に酒を売らないよう努力はしてましたよ、ということであり。
つまり客個人の責任で購入したことにしているわけ。いちいち。
あなたの責任よ、いいわね。ということ。
もうひとつは、客と店員が力を合わせるあの公然パフォーマンス自体に、抑止力を期待してもいるのだろうし。
なによりカウンター越しの『なあなあ』による酒類販売に歯止めをかけたいのだろうと。
そもそも、
確認作業というもの自体が、一対一のものではなく、第三者もしくは公的になにかしら証明しましょうよということだと思うのだが。
にしても、なつかしいなあ。
レンタルビデオ屋に勤めていたころも、この手の輩、居た居た。
身分証明の提示をお願いすると、
「俺を疑ってんのか」
と憤るやつが。
「すぐそこに住んでだよ。ほら。郵便局の裏。パークハイツ○○の202号室。嘘じゃねえって。来てみっか?」
「あなた。少しは人を信じなさい」と説教した初老の方もおられた。
あほか。
感覚的には同じものを感じる。
第三者的視点が欠落しているノリね。
『私』があって『公』が抜けてる。
俺のことは俺が一番知ってんだ、っつう。
逆に聞きたかったよ。じゃあ通りすがりの氏素性も知らない他人に、あなたは何か貸せますか? と。
たとえば『ツケ』だなんていう一対一の顔パス文化が育んできた信頼関係を、段階的に捨てて来たわけでしょ。あたしたちは。なあなあを排除してきたのでしょ。
なんなら政界の宿痾もつまるところその感覚からであろうと踏まえてますよね。なあなあからのしがらみだと。
それでいて事務的な接客を揶揄しながら、それに甘えてもきたと。
そういう時代に自分たちでしてきたのだ。
怒ってどうなるものではないよ。
ああ。
事件のキレたご老人。
店員をいちニンゲンと認識するがゆえの憤りなのに違いない。
そうと認識する以上は、相手も自分を生のニンゲンとして扱って当然と。
つまり、無視されたような感触なのだろう。
しかし我々はすでにレジ店員個人との売買関係にはないということ。
いわずもがなだが。
レジ店員は、有体に云ってレジオペレーターさんなのであーる。
☾☀闇生☆☽