カート・ヴォネガット著、
浅倉久志訳『スラップスティック』ハヤカワ文庫
この寓意に満ちた物語のなかで――、
主人公は、
「LONESOME NO MORE!」
(もう、孤独じゃない!)
を合言葉に米国大統領の座におさまる。
そして『拡大家族』なる政策を敷く。
それは、リンゴやバナナといったありふれた固有名詞を、全国民のミドルネームにあてがうものだ。
選択は、政府のコンピューターによる無作為の抽出にゆだねられる。
山田“ポタージュ”太郎とか。
一本糞“サファイア”紀子とか。
これにて、おなじミドルネームを持つ者は、みな家族であると。
よって、ひとりじゃないよ、と。
巻末の訳者あとがきに、そのアイディアにまつわる作者の発言が紹介されてあった。
占星術という迷信が、どうしていまだに流行るのかという質問にヴォネガットが答えたもので。
たとえば、
まったくなんの取り柄もなく、
友だちもいない冴えない男が、パーティーにやってきたとして。
案の定、周囲は彼にコミュニケーションのとっかかりを見いだせない。
ところがそんな一見無個性な男でも、
いや、
ばかりか誰にでも必ず誕生日はありますと。
そこで親切な誰かが彼に声をかけるのだ。
「キミの誕生日は、いつ?」
となればただちに占星術式に彼の星座がわかり、それをとっかかりとして性格判断やらに話題は広がり、たちまちにして星座的な敵対や友好関係が明らかになる。
まざまざとそこに個性が、たちあがる。
すると他の誰かさんが、
「あ。あたしも獅子座っ」
なんてね。
場の対人関係が、結ばれる。
なんの価値も見いだせなかった男が、星座という方便ひとつで、一変するのだ。
以上は意訳だが、だいたいそんなことが述べられてあった。
ははん、なるへそ。
だからこそ、わが国では血液型性格判定が根強いのだ。
このさい科学的根拠を言うのは野暮でございと。
そういうことなのか。
そういえば、
小学校の時に『ラブ様』なる遊びがはやった。
なんのことはない『こっくりさん』を恋愛仕様にしつらえただけのものである。
女子に、これの使い手がいて。
つまり、あいつのは必ず当たると。
決して可愛くなく、
といって男子の罵倒の餌食にされるほどの、でもなく。
はっきり言ってしまえば、あまり印象に残らない。
十年後にそんなやつ居たっけ、と言われそうな。
(ちなみに1クラス40人で、学年は7クラスという時代)
そんな女子が、ラブ様ひとつで学年のスターになったのだ。
他のクラスからも、『鑑定』をしてもらいにやってくるほどでね。
たとえば出身地や、好きなミュージシャンや、映画監督。
あるいは職種や、趣味といったものを、我々はつながりのとっかかりにすることも多い。
けれど、
年々これらは細分化され過ぎてね。
SMについて述べたときにも触れたけれど。
ネットで世界規模に捜索せねば、なかなかどうして、厳密な意味での同好の士になんぞにはめぐりあえないものであーる。
出身地でさえも、そこに住んだ時期が十年も違えば、まるで話があわないもの。
「ほら、北口のバッティングセンターの喫茶店にさ」
「喫茶店?」
「あったじゃん。純喫茶とんちんかん」
「そもそも北口にバッティングセンターがない」
「うそおん」
「ユニクロと、大型家電屋と、その駐車場」
「だけ?」
「だけ」
そこへ行くと、血液型は四分の一。
いたってシンプルだ。
不肖闇生、
人間の性格をたった四つにわけるなんざ、可笑しいがちゃんちゃら鳴っちまうぜと。
横っ腹で笑っちまうぜと、
そう高をくくってはきたのだが。
ううむ。
ヴォネガットの言う道理もまた、道理なんだねえ。
すくなくとも、世界の四分の一は、仲間と。
こんなあたしにも、同族がいると。
ほおお。
心強い。
☾☀闇生☆☽
ハイホー。