矢野顕子の新作を聴いた。
バンドっぽい耳あたりは、申し分ないし、楽曲もいくつかいいのがあった。
のっけから染みたし。
しかしながら詞が、どうにもこうにも。
いつものように繰り返し聴きこんでいこうと、そうしていたのだが、正直、それが理由でつらくなってしまったのである。
未練なんかないわっ、という表明ほど、未練を感じさせるものはなく。
だからぜぇんぜん平気っ。というアピールほど哀しいものもなく。
強調すれば強調するほど、それは際立ってしまって。
なんかそういうのばっか耳に残るのだ。昨今のは。
かつて『さすらい』をカヴァーした事があって。
オリジナルの奥田民生のは飄々としているのだが、いまの彼女に絶唱されると、ずどどどぉんと重い。
とてもじゃないが、さすらえない。
イプセンの『人形の家』とか。
キョージュの顔とか、チラついちゃう。
それとね、かねがね感じていたのだが。
『愛』
歌詞がこればっかになっちゃってんのね。
年々増えていくんだ。
いやなに、べつにそれ自体は否定しませんよ。
いいじゃないですか。
愛。
連発しましょうよ。愛。
闇生、愛。
ジャイアンツ、愛。
はるな、愛。
けれど、なんか抽象的なんですね。日本語の手触りとして。
きっと彼女にとっては具体性をつきつめた結果なのだろうけれど。
それはそうなんだけどぉ。
あたしゃね、米国に居を移したのと、信仰が関係しているのではと、睨んでる。
つまり英語圏にいるということが、日本語詞を年々抽象的にさせていると。
かつての矢野顕子なら、隣のカップルには目もくれず食べる「ネギ山盛りのラーメン」だとか。
故意に誰かを悲しませてしまった痛みを「おろしたての靴下」を契機に、自分の「きれいな尻尾」にすり変えてしまうとか。
さよならを言う練習中に止まらなくなった涙には「やだわ」と。
弾ける光をわたしの指で「へたっぴだけど」編んであげるわ、など。
詞に手触りがあったのだ。
愛という言葉を使わずに、それを表現しようとした。
この新作にはカヴァーが二曲あって。
こともあろうにツェッペリンとドアーズである。
むろん矢野顕子風味にしてはいるのだが。
なにもWhole Lotta Loveやんなくったってさ、なんて思う。
どうしちゃったんだよ、と。
せいぜいライヴのお遊びとしてなら受け入れるけれど。
二度目は飛ばしちゃった。
いま、ずっと談志を聴いてます。
さすらい、どころか迷走している観がね…。
ファンにとっては、つらいのです。
☾☀愛。☆☽