「やぁぁぁあっしゃっすぅいぃぃぃぃ」
そんな声がこだまする。
某駅西口の電気街。
通りに面した中古ゲーム屋のカウンターのなかから、往来にむけてその店員は叫んでいる。
「やぁぁぁあっしゃっすぅいぃぃぃぃ」
やさしい、を感極まって連呼しているような。
いわずもがな当初は「いらっしゃいませ」の意で発音されていたはずだ。
んが、呼び込みの第一目標はその意味の伝達にはなく、一にも二にも『にぎやかし』である。叫ぶうちに店員誰しもそれに気づき始める。ようするに明るく注意を引くことに尽きるわけであるからして、連呼するうちに川の石ころのようにカドがとれ、意味も取れ、そうなるべくしてそうなるのものなのであーる。
冒頭の謎の雄たけびのようにと。
それは千客万来という求愛の叫びだ。ならばその勢いを借りて「ありがとうございます」も、
「あだーすっ」
自然そんな煮崩れをする。
それは来店時に膝を崩して迎えた、その惰性でもある。
食べ残すたんびに繰り返し煮込んで出汁の染みた、田舎煮のような、ざっくばらんがゆえの旨さ。
すなわち、ゆるさ。
むろんこれは場所を選ぶふるまいであるわけで、たとえば歯科医にこれをやられたりするとまず、引く。
「どおすか。いっちょインプラントでも、いっちゃいますか」
「いっちゃいましょか」
「やりますか」
「やられますか」
「イェイ、イェイ、イェーーイ」
てか、コントがおっぱじまる。
逆に、こういう「あだーす」式の勢いありきで存在する店に、懇切丁寧に振舞われると、それはそれで落ち着かないことになって。
実はよく利用するコンビニで、いつもそんな事を考えさせられるのだ。
さすがにアメ横の叩き売り式の接客は、コンビニに望んだりはしない。
エレベーターガールやバスガイドばりの畏まりも、いらない。
なんせ敷居の低い利便性のたまものだもの。コンビニなんてとこはさ。
だから接客は丁寧でありながらもテキパキと、そして何よりシンプルがベストであろう。
で、冒頭の例をふまえて言えば、煮崩しの加減が難しいのだな、ここは。
「やぁぁぁあっしゃっすぅいぃぃぃぃ」
では、崩しすぎ。立ち読み客を追い立てるようで。
第一、おでんや唐揚げのコーナーに唾が降りかかっていそうでよろしくない。
といって声楽の教師なみの笑みと腹式呼吸でもって、
「いらっしゃいませ」
一音、一音、正確に発音されるのも、なんだろう、度か過ぎて嫌味っぽい。
いらっとくる。
実はそんな店員さんがいらっしゃるのだ。
断わっておくが、彼女に落ち度は何一つない。
それは断言する。
丁寧で、
よく気がつき、
いつだって明るく、
そして働き者だ。
けれど惜しいことに、やはりそのはきはきしすぎる応対が、なにかひっかかるのだな。
それはやはり、落ち度、というにはあまりに大袈裟で。
なんといおうか、子供のころから学級委員ばかりを務めて、クラスで男子VS女子の論争が勃発すれば、すすんで女子の代表を買って出て理詰めで男子を追いこんでくる。それはもう容赦のない正論の舌鋒で皆殺しにしてしまう。そんな真っすぐな性格がゆえに恋も化粧もあとまわしに。その挙句、一念発起。女性の未来を背負って立って出馬して、正直でハツラツとした性格が庶民の人気を呼びまくって、あとの一生をこの国の世直しに費やすような女性。
だなんて漫画のような偏見をつい抱いてしまうような。
そんなヒト。
あ。
付け加えれば、レジ作業のすべてを、そのアナウンス学園の講師のお手本とも言える発声で、逐一実況中継することかな。
「この唐揚げは温めたばかりでまだあついですから、お飲み物との間に雑誌を挟んでおきますね。こうするとこちらのジュースに熱がいきません。やっぱりコーラは冷たいほうが、いいですので」
お釣りの受け渡しから、割り箸の要不要の受け答えまで、一事が万事そうである。
何を購入したのかを店内中に報らされているようで、照れもする。
けど、これを欠点と片付けてしまうのは、惜しいのだ。
彼女の気遣いは、教えて簡単にできるような種類ではないのだから。
問題は丁寧と心遣いの加減なんですな。
もう一人、
こちらも丁寧で優秀な店員で、男子学生。
けれど、口調がパチンコ屋のアナウンスである。
あのなんと言おうか、小指を立てて歌うムード歌謡の歌手ような、語尾にくねっとしたアダルティーな抑揚がつく。
しかもクリス・ペプラー調の、FM局ナビゲーターの低音ええ声系である。
さらには、間(マ)が、おっっっそろしく長いのだ。
商品を詰めたレジ袋を受け、
釣り銭を握って、
それを財布に入れながら、次の客にカウンターを譲り、
自動ドアを出かかったころにやっと背後から、
「ありがとう………ございましたぁん」
と声が届く。
やっぱむずかしいっすな、接客ってのは。
営業をかじったころ教わったのは、基本として、声を1オクターブあげること。
これは重要だと思う。
男の低音は、怒っているように受け取られる場合が多いし、ときに威圧的でもある。
電話なら、なおさらである。
というか、元気でポジティヴなら、自然と声の音程は上がってく。
不機嫌なら、下がっていくはずだ。
たしかジミ・ヘンドリックスが、人のしゃべり声をギターで模写していた。
のちにデイヴィッド・リー・ロスのアルバムでスティーヴ・ヴァイが同じようなことをやった。
ライヴでは、デイヴと会話までしてみせた。
人のしゃべり声を、あえて意味とは別にして、音楽的に観察してみるとなかなか面白いもので。
彼らすぐれたミュージシャンは、きっとそういう耳を持っているのだろう。
して、そんな世界観も、知っている。
目の見えな人は、そんな世界を生きている。
流行る店、
落ち着く店、
はしゃげる店、
楽しい街、
不快な街、
そこには必ずBGMとしてそんな声の音楽が満ちている。
ひとそれぞれに、メロディーがある。
そう考えると、同じ日常が、また違って見えたりして。
好きな人、
憧れの人
嫌いな人、
苦手な人、
なあなあな人。
その人たちがもつメロディーもまた、あなたとの関係性を歌っているのです。
そう思いません?
☾☀闇生☆☽