ビョークの新作『ヴォルタ』がいい。
発売は五月だったか。
勤務中にゆうせんの新作チャンネルで知り、その休憩時間にタワーレコードに走った。
ビョークの歌声には「凶暴な情熱」という言葉が実によく似合う。
獣性に満ちて攻撃的だが決して野蛮ではなく、気高く純粋で、それがゆえに繊細で傷つきやすいという、要するに痛みを知る人の厳しさと優しさを兼ね備えている。そんな声。
少女の凶暴と、峻厳なる母性の共存とでも言おうか。
事実、我が子と歩いているところをマスコミに囲まれ、牙をむいたという。
子を守ろうとして。
さながら捨て身で子猫をまもる母猫のように。
この「凶暴なる情熱」という形容は、宮崎駿の劇場用長編アニメーション『もののけ姫』の宣伝で使われていたものだ。
「天才宮崎駿の凶暴なる情熱が」
と。
なるほどあの作品には彼の代表作『となりのトトロ』にあった癒しや、懐かしみといったいわゆるジブリ色というものが、薄い。
彼自身がそれを払拭しようと命を削って描きあげた観さえある。
その凶暴は山犬に育てられた少女の獣性に。
憎悪にかられて暴走するタタリ神にと、随所にほとばしっていた。
そしてそれら獣性に託された作者の情熱は、和解の情熱と拮抗することによって浄化の方向性を見出す。
この抑制の利かなくなった情熱の原型は、彼のオリジナル長編第一作『風の谷のナウシカ』にも見て取れる。
自身が筆をとった劇画版はさらに激烈だ。
聞くところによるとナウシカというキャラクターは、日本の古典に記された虫を愛でる姫君の記事に触発されたというが、それはナウシカの優しい一面に限ったことに過ぎない。
劇画版を読んだものは、哀しみをこらえつつ闘うナウシカの姿にジャンヌ・ダルクを見たはずだ。
聖なる使命感のために女であることも、私欲すらもかなぐり捨てて闘う。
そのひたむきさ。
リュック・ベッソン監督版の『ジャンヌ・ダルク』ではミラ・ジョヴォヴィッチがジャンヌを演じていたが、彼女の少年のような肉体と山犬のような面構えが、その捨て身の役柄によくあっていた。
少女と母性。
あいだの「オンナ」が抜けているのだ。
ビョークの声には、そんな響きを感じる。
歌。というよりはもはやそれは「祈り」である。
チェチェンで妊婦の自爆テロがあったという。
それを取り上げて「テロ組織の残虐非道也」としたり顔で報じたマスコミに、ビョークは臆面もなく疑問を投げかける。
自爆犯は「自分が世界を変えられる」という希望を持っていたのでは? と。
ミュージシャンなら、反戦平和。
テロ撲滅。
人命至上主義。
といったところにあぐらをかいていれば、それで済んでしまうご時世だ。
むろん彼女は自爆テロを哀しむ傷つきやすい胸を持っている。
ビョークも子を持つ母なのだから。
しかし、そのうえでそれを一旦棚に上げる。
世界を敵にまわす危険を覚悟で。
もし彼女が、ミュージシャンとして成功していなかったら、と考えるだに恐ろしい。
朝。
新宿駅のホームからふと見上げる。
ビョークの祈りを吸い取って、空が言う。
哭け、
哭けと。
このなまぬるい都会の空では、泣けない。
☾☀闇生☆☽