壁の言の葉

unlucky hero your key

笑いたい。

 酔いがほどほどにまわってきて、あらゆる方面への読解力がふにゃちんとなりゆく朝酌の終盤。
 映画も漫画もめんどくさい。
 小説なんぞもってのほかじゃ。
 手持無沙汰でそろそろ寝ようかとも思うのだが、なんだかもったいないような気もするそんなひととき。
 あるでしょ?
 なんとはなしにアマゾン・プライムで松本人志のドキュメンタルを見なおしたのである。


 んで、あそうかと気づいたのだな。
 やれ制約だ、規制だと自縄自縛におちいりゆくテレビの裏をかいて、じゃあ規制をできる限りとっぱらったらどうなるか、という実験であったと。


 絵画の本質は額縁にあり。
 とのチェスタトンののたまいは、なんでも自由の本質を指したものであったと言い。
 ルール無き自由ほどやっかいな不自由はないわけでえ。


 笑いとは、緊張の緩和である。
 とは枝雀のお言葉。
 ならばこの状況での緊張とは、それぞれが持ち寄った100万円のおもみであろうが、ひと口に100万円といってもその意味するところは人それぞれであり。
 ましてや、視聴者にとっての100万円とも違う。
 となると100万円は、観客にとっての緊張としての作用は、薄っぺらだ。
 ぐだぐだだ。


 おそらくはここで緊張の役割をはたしているのは、100万円よりもむしろ通常の公共放送でのいわゆる規制の幻影ではないかと。
 そいつが演者、視聴者のあいだに共有されていてこそである。
 そのうえで、そこから解き放たれました、という緩和だ。
 あ。そこまでやっちゃうんだ、という。
 ようするに自称貞淑な人妻が不倫ではっちゃけましたというやつであり。
 旅の空でのオイタであり。
 社畜君の無礼講である。


 んで、思うのだな。
 仮にこれを放送ではなく、チケットを売って舞台でやらかしたとしたらどの程度だろうと。
 テレビほど規制にがんじがらめにされてはいないし。
 それでどこまでうけるものなのかなと。
 有名タレントたちがそれをしている、という驚き以外に、なんかあるのかね。
 エログロナンセンスは、舞台表現でもっとも手を出しやすく、かつ受けるのに厄介なシロモノであるだけに、手腕が問われるもので。
 たんに、はっちゃけました、では賞味期限が心もとない。


 ……などと考える余裕があることに驚いた。
 よって、せっかくの酔いがさめてもうた次第であーる。




 志ん生や小さん、枝雀のCD同様にかつてのダウンタウントークは、毎晩毎晩繰り返し繰り返し聴くにあたいするものだった。
 120分のVHSテープにCMカットの3倍モードで録り次いだやつを、流しっぱなしにしておった。
 そういうイタイイタイ奴が、あの時代は結構いたのである。……たぶん。
 むろん、こっちゃおっさんになってもーたよ。
 ええ、そうですとも。
 そいつは認めよう。
 笑いのセンスもずれているのだろうし。
 老害かもしれんし、単なるノスタルジーかもしれん。
 けど、繰り返し視聴するに値するものなのだろうか。これ。
 実験、という側面は評価したいのだが、どうなのよ。これ。
 10年後に同じように笑えるのかね。


 近年隆盛したYoutuberたちのおかげで、かえってプロの『芸』の質が問われているのだと思ふ。
 いい傾向ですよこれは。
 なんとなく惰性で食えているテレビ芸人の淘汰がおっぱじまるということでしょうか。


 そもそもテレビのバラエティ自体、放送したらそれでおしまい的な要素が強かった。
 そういうなかで慣らされてきた芸と、師匠から弟子へと伝承され、生の客相手に試行錯誤を繰り返し、場合によっては映像や音源がのこされる芸とは、本質が違うのだろうが、やっぱやり逃げ芸というやつは、ちょっと寂しいわな。


 出たとこ勝負のばかりを見せられていると、ちゃんと作りこまれたものが観たくなるもので。
 出たとこ勝負の芸にも、本来はルールや技術や規則があるものなのだが、どうなんでしょう。
 同様にインプロビゼーションを売りとするジャズと比べて、どうなんでしょ。






 といったあたりで、二度寝に挑む所存。
 この時間に起きていては、夜勤にひびく。


 ☾☀闇生★☽