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きれいなおうち。

 老い先を、夫婦だけで暮らしていくのに心細くなったのだろう。
 長男一家を家に迎え、自宅を二世帯住宅というのに建て替えたあたしの両親。
 嫁は専業主婦のベテランで、いわゆるミニマリストというやつらしい。
 家のなかは塵ひとつなく、整然として、無駄がない。
 余分もない。


 そして、遊びもない。


 まず、老夫婦にとって生活の一部であった庭木や草花の面倒をみることが、禁じられた。
 屋内には花ひとつ飾ることもゆるされず。
 父の習慣となっていた庭いじりと自家農園の管理も拒まれた。
 それによって庭先や服が泥だらけになるのが嫁には耐えられないらしく、
 当然それらに必用な道具も使われなくなり、
 無駄となり、
 やがて処分された。


 母の生きがいであった日本画の制作も、存亡の危機が迫っている。
 作品の管理が許されようはずもなく、またそのアトリエも認められない。
 壁に絵を飾ることすら許されない。


 本を読む習慣のない両親である。
 そうなると、何もない部屋でただテレビを観て過ごすしかないだろう。
 本を読んだとしても蔵書もまた処分されただろうが。
 父の写真の趣味は、デジカメによるデータ化によって、処分をまぬがれた。
 日の出とともに畑で汗をかき、暮れれば晩酌を楽しむという日々だった。
 いまとなって残されたのは晩酌とテレビだけ。




 耕作のプランニングも、
 管理も、
 野菜づくりも、
 花壇づくりも、
 絵の制作も、
 造る(創る)側の行為である。
 大なり小なり、創造がある。
 そしてそれらは「ただ生存すればいい」というスタンスからは距離を置くもの。
 効率のよい生存サイクルからすれば、それら創造は無駄であり、余分であり。
 けど、とどのつまりそれが文化なのではなかろうか。
 そして文化的生活によって人は、アニマルから人へと『生きる』。
 もしくは『活』きる。
 

 はたして、文化を処分していくことも創造なのだろうか。

 
 そんな親に育てられた長女は、成人して家を出たが、部屋は同じようにきれいであるという。
 モノが、ない。
 自炊は、しない。
 調理器具を部屋に置きたがらない。
 作るのも好きではない。
 恋人もつくらない。
 といって外食にも飽きるので、休日は欠かさず家に帰り、母親の手料理を食べる。







 自分たちの食べるものを極力自分たちでつくり、
 料理し、
 草木を育て、
 飾り、
 愛でて、
 絵を描く生活。
 それこそが豊かさであると思ふのだが。


 少なくとも、
 日がな一日テレビ見て、酒飲んで寝る、というシンプルなサイクルよりは『生』に満ちている。
 


 ☾☀闇生★☽