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恵方巻。

 長巻系の寿司を切らずにかぶりつくという関西方面から到来した食べ方は、関東の習俗にはなかったと思ふ。
 どちらかといえばそれはあまり「お上品ではない」行為であったはずで。
 そいつが、元来野卑で荒々しくせっかちな関東武者の土地柄(田舎)から発祥したのではなく、みやびたところから出ていることに面白みを感じずにはおられない。
 たしかに関西特有の華やぎがそこに満ちている。


 ともかく、
 そんなお里の異なる文化を関東が、それもたかだかコンビニの策略にのって受け入れはじめたのは、その前段階として『手巻き寿司』の流行があったからにほかならない。
 んが、はて、あれはどちらの方角から到来したのであろう。
 バブル期の終わりごろだったのではなかったのか。
 そしてその手巻き寿司のかぶりつきへの暗黙の正当性として、
 いわばはしたなさの自己正当化として、おそらくは伝統的ファストフードであるおにぎりへの民族的記憶がおのおのに働いたことは、疑うべくもないのだ。
 ええい、ままよとかぶりつき、
 きっとこれは寿司ではない。寿司風のおにぎりであると。 
 きっとこれは野郎ではない。ボーイッシュな女の子であると。
 きっと彼はゲイではない。女性キャラのコスプレをしているだけだと。
 こうしてたかだか概念の持ちように過ぎない案件になりはててしまえば、わけはない。
 形のない境界など時期に溶解し始めるのが世の常なのであーる。
 ましてや慣習をコンビニ文化に左右されるようなご時世とあっては、おにぎりも手巻き寿司も恵方巻も値段がついて陳列されてしまえば同列だ。
 如何に手軽か。リーズナブルか。そこそこうまいかどうかの問題に過ぎなくなる。




 はて、なんの話をしていたのだか。


 恵方巻
 重要なのは実は食の一面だけではない。
 その年に適った干支の方角を向いて食べるという風水的側面を持つことにあるのだな。
 信心が失われるほど、パワースポットだのスピリチュアルだのが持てはやされる傾向は、あたしらのなかで『虚・実』に対する無意識のバランス感覚が働いているとみてよいだろう。
 双方を許容してこその『空』であると。
 その風水的一面。
 こればかりはおにぎりにもないはずだ。
 そういう作法を取っ払ったところにおにぎりのファストフードとしての確固たる存在理由があるわけで。
 それでこそ江戸っ子の「しゃらくせえ」感覚に適ったのである。
 そう考えると恵方巻に付随する「かぶりつき」というはしたなさが何ゆえみやびた土地柄で支持されてきたのかという疑問が残るのだが。
 それを風水的要素、いわば古代の最先端都市文化的要素で、うち消したのではないのかと。
 風水はいまでこそスピリチュアルで非科学的なものと解釈されがちだが、伝来した当初は最先端の科学だったのである。
 この学問を、後ろ盾にした。
 いわば「下品の科学的根拠」ということになる。
 有体に言ってしまえば「下品の言い訳」である。
 
 

 黒くてぶっといアレに大口を開けてあられもなくかぶりつくさまは、実は、科学に支えられていたと。
 科学的下品。破廉恥科学なのだっ。








 なにが「なのだっ」なのか。
 おっ。カップ麺ができた。
 ではこの辺で。








 ☾☀闇生★☽