ガリガリ君もハーゲンダッツのアイスクリームも、要は砂糖のかたまりのようなものでしょ。
摂取する肉体からすれば、どちらも砂糖をむさぼり食っているようなものっしょ。
という十把一絡げの見方に出くわしたとき、大概の人は多かれ少なかれ己の中に反論めいた感情がおこるはずで。
お母さんが握ったおにぎりと、お父さんが握ったそれでさえ、それぞれまったく同じ具材をつかっていたとしても、なぜかしら違う。
ましてや知らないおっさんや機械が握ったならばなおのこと、違う。
いや、違うと思いたい。
思いたがる。
その昔「ブルセラ」なんていう言葉が流行って。
世の女子高生たちが自分の着古したパンツを売り歩いた。
むろん需要あってのことで。
買ったのは哀しきおっさんどもであったろう。
パンツはパンツでも、それがどういう人のものかで価値が変わるという不思議に一部の世間はふりまわされたわけだ。売り手も買い手も。
ではあのとき、小遣い欲しさにパンツを売っていた女子高生たちの現在のパンツはどうか。
同じ人のものであるはずなのに、やはり需要に差が出るのではないのか。
ガリガリ君と砂糖。
女子高生のパンツと元女子高生のパンツ。
仮にこの十把一絡げを科学的な見方とした場合、なるほど「科学では説明できないもの」は、確かにありそうだと、予想できる。
しかもごく身近にね。
是非はともかく、この差について考えたり、感じたりすることに面白みが潜んでいると思う。
コーヒー好きならキリマンジャロとモカの、
酒好きならシングルモルトがどーたらこーたらたという、
ジャズ好きならオスカー・ピーターソンとビル・エバンスの。
それぞれその差異のなかに、遊ぶ。
見つけた分だけそこにひとつ世界が広がる。
兵士は人殺しと変わらない。
というモノの見方に触れるとき、いつも連想することごとをつらつらと書いて見た。
☾☀闇生☆☽