「たしなむ」という言葉は「お酒をたしなむ」「タバコをたしなむ」のように「好む」という意味と、「俳句をたしなむ」のように「好きこそ物の上手」式に「技術を身につける」という意味に。それから「身なりをたしなむ」「言葉遣いをたしなむ」のように「謹む」という意味あいもあるらしく。
酒の喩えが一番わかりやすいけれど、耽溺して泥酔したり、アル中になって酒乱になってはよろしくないと。
まったく飲まなくても不都合は無いのだけれど、ほどほどの酒は人生を豊かにさせるし、硬直した対人関係も和らげる。
好み、飲み方を覚え、セーブする。
これ、『孤独』と同じね。
こじらせて、それに耽溺して、孤独にのまれては逆効果。
孤立し、疎外感に苛まれてしまう。
西部邁いわく、
「人生に必要なのは1人の別れがたい恋愛相手と、1人の頼りがいのある友と、1個の忘れがたい思い出と、1冊の繰り返し言及する書物」プラスお酒、とな。
お酒は前記の四つに作用する潤滑剤であるから、数式的には(女+親友+記憶+本)×お酒。
ちなみにこの「酒」のたとえ。
司馬遼太郎が「愛国心」をたとえたのをヒントに、あたしゃそれを「孤独」に転用したのであーる。
愛国心*1もそれに依存しきって泥酔すると、偏狭で盲目な国粋主義へと走ってしまう。
んが、まったくそれが無いと、まるでお酒の無いテーブルに集まった赤の他人同士のように、まとまらない*2。
このあたりの距離感のつかみかたが歴史や伝統、慣習のなかにあるらしいんだけれども。
福沢諭吉がいうには「すべての学問は人間交際のためにある」
とどのつまり「社交」ということなのでしょう。
数学であれ、科学であれ、なんたら社会学であれ、ニンゲン学であれ、音楽であれ。
孤独であれ。
最終的には交際のために、ある。
孤独で育てた「果実」もまた、社交の場で振る舞われてこそやっと「結実」するのだ。
ところで、ケービの仕事がら、その同僚たちはダブルワーカーが少なくない。
あるいは、自分のやりたい仕事のための充電期間としてケービを選んだ人とか。
前にも言ったけれど、役者も多くてね。
休憩時間の過ごし方を見ていると、その人の本業や目的がうかがい知れて面白いよ。
そういう人たちはとりあえず「孤独」をもとめて、仲間と合い席するのを拒むのよ。
外に食べに行って、そのまま公園でセリフをさらっていたり、契約先との交渉をケータイでこなしていたり。
なにごとかの資格試験の勉強をしていたり。
むろん昼間は本業、夜はケービという人もいるからそういう場合は仮眠タイムだ。
ところが、雨や真冬ともなると詰所ぐらいしかそれらを凌げる場所がなくなる。
そうなるとやむを得ずひとつ屋根の下、仲間や職人たちと過ごす羽目になるわけ。
そういうとき、他人の孤独を気遣えない、つまり空気の読めないやつというのは、かならずどこにでもいるもので。
そういうのが感知できないからやたらめったら周囲に話しかけてる。
(最近はスマホの暇つぶしアプリが充実しているから、それも少なくなったかな……。けど、それもどーなんだと)
会話をしたい気持ちが相思相愛なのにおくてだったり。あるいは打ち解けられない仲間がスマホのゲームに逃げている場合は、むしろ積極的に話しかけることもアリだとは思う。特にリーダーとしては。
けれど、小説本を手にしていたり、明らかになにか小難しい教本やテキストを開いてノートとっているような人に、エロ話やバカ話をながながと振ってるのって、どうよ。
ノータリンではないかと。(死語…)
パープリンでもあるだろうと。(死語っ)
ケービの尊敬する某先輩が言ってたけれど「この世界、気遣いでできているからね」とはそういうことも含めたことだと思う。
接客業も、営業も、配送業も、あるいはSEや修行僧であっても、どんなに孤独な職業であっても、最後には人と接するわけで。
接しないわけにはいかないわけで。
そこで孤独の距離感をよめないと、しくじる。
時にはあつかましさもまた必要だけれど、それも確信犯としてやるべきでしょう。
あ。長くなってしもーた。
では、
今夜は夜勤。原チャリTodayF号でゆくのでーある。
☾☀闇生☆☽