孤独の領分を。

 森博嗣著『孤独の価値』幻冬舎新書 読了

 この本を読んでいるあいだ、ふと有名な映画のシーンを思い出していた。
 黒澤明の名作『生きる』のブランコのシーンだ。
 死期を覚った主人公が、雪の降る夜の公園でひとり、ゴンドラの歌を口ずさみ、ブランコをこぐ。
 遺体となった主人公が発見されるのは、その翌朝だったと思う。
 前夜に目撃した警官によれば、どこか楽しげだったという。


 当時はまだ不治の病とされていた胃がんが発覚し、
 なんの変哲もない人生を挽回しようと慣れない遊びに逃避した主人公だったが、何をしても充実しない。
 そもそも自宅と勤務先をメトロノームのように正確に往復するだけの半生で、遊び方すら知らないことを自覚する。
 といって日々の役所勤めもまた、書類に捺印しては目も通さずに右から左へパスしていくだけ。
 せめて家庭と息子の成長にかけた人生であった、と思いたいが、その肝心の息子は結婚するや嫁と一緒になって、同居する自分を疎みはじめる。
 いったい自分の人生はなんだったのか。
 ところが、あるきっかけでこれまで他の部署に丸投げしていた仕事の案件に、活路を見出すのだ。
 ブランコのシーンは、そのプロジェクトで完成した公園でのこと。
 水はけが悪く、夏になると蚊がわき、悪臭もして衛生的にも問題があった土地だった。
 近隣住民たちが役所に押しかけて苦情を届けるが、部署から部署へとたらいまわしにされてしまう。主人公もまた、その案件を読みもせず他の部署に投げていたひとりだったが、「生まれ変わり」、先頭に立って整備計画を起し、脅迫までしてくる関係各位を説得してついに完成させた公園だったのだ。

 
 なぜ主人公は死を前にして楽し気だったのだろうか。
 それは彼が初めて勝ち得た自由だったからではないのか。
 その自由は絆やしがらみといったものから解き放たれた本当の上質な『孤独』から生じるもので。
 しかし、世間は孤独というものを長年ネガティヴなイメージとして喧伝してきた。
 いまでもエンタテイメントはそういう構図で『感動』を売りつけている。

『孤独』=不幸。
『仲間』=幸福。

 という構図で物語をつくることほど、簡単に『感動』を呼べるものはない。
 その安直さのせいで『孤独』は『孤立』と混同されてもきた。
 実際は、孤独こそが人間にとって重要であることを、あたしらは知っている。


 孤独は独立の条件であって、孤立とは異なる。
 たとえば独立国家と孤立国家はまったく違う。


 結婚しない人が増えているのも、子供をつくらないのも、本音のところではそうではないか、と著者はいう。つまり、孤独という自由を若者たちが選んだ結果なのであって、社会保障や政策をどれだけ手厚くしようが変わることはないだろうと。
 自覚しているかどうかは別として、独りに自由を感じているからこその流れだろう。


 特に情報過多の情報メタボとなった現代にあっては、一時的に自分から情報をシャットアウトしないかぎりインプットされっぱなしになってしまう。
 喰いっぱなし状態だ。
 そして世間から隔絶した空間で、定期的に瞑想・思想する時間が必要だということは、多くの人が認めている。
 つまりこれは孤独のすすめでもあるだろう。
 咀嚼と消化タイムといったところだろうか。


 食べる楽しみは、空腹あってこそだ。


 世の中のありとあらゆる仕事や物事の起点には創作がある。
 その最初の火種というものは、個人からしか出力されない。
 その後の過程で複数の人のあいだで議論されたり、直されたり、盛られたり、あるいは製造過程で共同作業が必要とされるとしても、起点は一人の頭からだ。
 つまり創造は、孤独の所産なのである。


 『生きる』の主人公が、金をはたいて遊び呆けても、酒を飲んでも、女の裸を見ても、一向に充実しないわけはそこにある。
 金を払って得られるものは、ほぼほぼすべてインプットにすぎないのだ。
 そして、インプットだけでは孤独になれない。
 読書や音楽鑑賞であっても、作り手との対話のような行為にほかならないので、厳密には孤独になれていない。
 いわずもがな『孤独』は『自由』と同義語と言っていい。
 『生きる』の主人公は、周囲の反対、圧力、批判に動じずに企画・活動して、あの公園を完成させた。
 反対派を単身説得することからスタートしたそれは、紛れもないアウトプットだ。
 その一番の収穫は、あのちっぽけな公園ではなく、魂の自由(孤独)を得たことにほかならない。
 ひとりのブランコで充実をかみしめていたのである。死を前にして、間に合ったと。


 さて、著者は孤独=自由をかちとるために、創作と研究を薦めている。
 それで飯を食おうとしてはいけない。
 儲けようという下心や承認欲求は邪魔っけだ。
 健康の為にジョギングをするとか、何々の為にというのはあまりよろしくないらしい。
 できるだけ無駄なこと、非効率なことほどいい。
 (たしかに健康やダイエット目的でジョギングをはじめる人たちというのは、長続きしていないと思う。せせこましい損得勘定から抜け出ていない。)
 そして創作が苦手の人でも詩作ならできるだろうという。
 うまく書く必要はないのだから。
 研究もまた、世のためとか実利を考えない計画ほどよい。
 それら創作行為を『孤独の消費』と著者は表現する。


 あくまで、自分のための創作であり研究だ。
 アウトプット。


 そこでまた、連想してしまった。
 創作、というと敷居が高すぎて、人によっては「そんな暇は無い」と諦めてしまう。
 おそらくは知らずに他人の鑑賞に堪えるものをつくろう、という承認欲求と連結してしまうのだろう。
 ならば俳句はどうだろう、と思った。
 短歌もある。
 古来、口語文のない時代から、職業の貴賤をとわず、想いは歌となってアウトプットされてきた。
 短いセンテンスで、感受性をとぎすましてなにごとかを表現するという行為。
 季語だのルールが面倒だというのなら、自由律俳句というのがある。


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『まさかジープで来るとは』、『カキフライが無いなら来なかった』
*1


 たとえば通勤時間を受け身一辺倒にスマホでの暇つぶしに費やしてしまうより、まずはこういった小さなアウトプットを習慣づけてしまうのである。
 用意するのはメモで事足りる。


 ジョギングは誰のために走るのでもない。
 だから根性で走るばかりがジョギングではない。
 そして健康のためとかいうのはただの方便で。
 少なくとも続いている人は、つまるところ走りたいから走っている、それが起点になっている。
 それはそこに孤独=自由を実感するからなのだ。


 このブログでも『孤独のたしなみ』について、ちらほら言及してきた。
 孤独をたしなむ人は、強いのだ。
 不幸になれない。
 そして孤独をたしなむ人は、他人の孤独を尊重する。
 むやみにべたべたしてこない。
 土足で踏み込まない。
 言い換えれば『子供の領分』ならぬ『孤独の領分』を侵さない。
 尊敬しあえる関係というのもまた、尊重し合う孤独の上に築かれる。




 追記。
 そういや宮崎駿の密着ドキュメントで、なにかというと宮崎に問いかける取材スタッフが窘められるくだりがあった。
 まさに宮崎が沈思黙考しているその孤独の領分に、ずけずけと踏み込んだことに対する怒り。
 こんな野暮なこと言わせんなよ、とでも言いたげで、無粋の極みであった。




 闇生

*1:せきしろ又吉直樹共著『まさかジープで来るとは』と『カキフライが無いなら来なかった』幻冬舎。自由律俳句というのを、この本で知った。アウトプットなんて肩の力を抜いた身近にごろごろあると教えてくれます。