壁の言の葉

unlucky hero your key


 伊達直人
 いたちちょくと、ではありません。
 なんであれ、
 パチンコによって知った層については触れないのだね。
 逆にはっそうすれば、
 いい歳こいたおっさんが、唐突にエヴァだの倖田未來だのにもりあがってるのも、そういうルートによる刷り込みだったりするのだし。


 ま。
 直人。
 いろいろ言われてますが、
 しょせんあたしたちゃ俗物だもの。
 そこにまみれてこその、人間だし。
 だもんで偽善以上のことなんて、できっこない。
 たとえ自己犠牲であれ、それも結局はひとつの自己マンに帰結するのだと。
 どーもすんませんと。
 密かに恥じ、謙遜することが、たかだかニンゲンに過ぎない者にゆるされたせめてもの身の丈サイズなのではないのか。
 そうやって偽善と折り合いをつけたことにしないことには、何も始まらないのだ。
 それ以上のことは身の丈のそと、としてね。
 なのでアレは「偽善か否か」。
 というその問いには、
 生来われわれには善行があたりまえにできるのだという思いあがりが如実に、ある。
 モロダシだ。
 かつふんぞり返って、ぷらんぷらんなのだ。


 嗚呼はずかしい。


 その尺度を借りてさらに言わせてもらえばだ、
 悪行ですら、偽と言う名の自己マンに過ぎないのではないのか。
 実際問題として他者を喜ばせたとしても、そこに偽善や自己マンを問いただすのなら。
 他方、実際に誰かが傷ついていても、そこに偽悪や自己フマンという名のナルシズム(つまりは自己マン)を見いだせるということだ。
 とどのつまり、だからどうした、な尺度である。

 
 人はたかだか自己愛で人を救いもするし、殺しもする。
 

 ならばどうする、である。
 その昔、松本人志が書いていた。
 全財産をどこかに寄付することを真剣に考えているとしてのこと。
 名を明かしてそれをすれば、売名だやらせだと騒がれる。
 もしくはウソだと。
 が、仮に匿名ならばどうか。自己マンではないのか。
 そのうえで実名をスクープされたら、もっと厄介で……。


 だからどうした。
 ならばどうする。


 子供のころ、お年玉をくれた遠い親戚について。偽善か否かなんて考えたことなかった。
 部活で、顔も知らない世代の離れたOBが用具を寄付してくれた時も、そんなこと考えなかった。
 ケーピのバイト(麻布十番)で、
 通りすがりのサラリーマンが「御苦労さま」と缶コーヒーをくれたことがあった。むろん彼は名乗らなかったが。たとえそこで伊達直人ですと名乗ったとしても、嬉しかったと確信する。
 その日バディを組んだ同僚のぶんはねえのかよ、なんて、だからどうした、だ。
 ましてや、
「ちぇっ、微糖かよ」なんて。とてもとても……。
 
 



 ☾☀闇生☆☽

 菅直人
 こちらはきっと、かんちょくと。
 いっそ大偽善でもぶちあげてみろっつの。