言論にたずさわる者として、(老いによって)脳が思想にたえることができなくなる前に自死を選ぶし、その具体的かつ確実な方法も準備してある、という発言は何年もまえに出したその著書のなかで彼は予告していた。
近しい人たちにもあらかじめ伝えるとも。
動物として死ぬことよりも人間として、意識体としての死を選ばざるをえない……云々。
言論は行動をともなってこそ、なのだろう。
あたしの読解力なんぞあまりに拙くて、彼の表現してきたものの半分も理解できていないのだろうが。
かつて、あてもなく入った地元の図書館の、なんとはなしに手に取った彼の本に救われたことがあった。
『虚無の構造』
それまでの人生のなかでもっとも自死にひかれた季節のまっただなかでのことあった。
むろん巷にあふれる自己啓発的な内容ではないし。
あたくしレベルの読解力には、きわめて難解で読みやすくもない。
けれど読んでいるうちに、得体のしれない巨大なむなしさに苛まれるているばかりではなくその正体を直視してみようと思い始めた。
というか、直視していないことに気づかされた。
なんだこの虚無感の正体はと。
解決うんぬんよりまずは、直視しなくちゃならんだろう。
傷口を。
巷にあふれる自己啓発系は、その痛みからの逃避や気のまぎらわし方法に過ぎない。
根本的な解決には至らない。
だから売れ続ける。
ちゃんと西部の著書を追っているならば、彼が周到に準備を重ね予告もしていたことだとわかるはず。
あらかじめそれを予告し準備しておくのも気遣いのひとつなのだ。
自死という行為にネガティヴな印象しか抱けないならば彼の『死生論』をおすすめする。
一切の学問は人間交際(社交)のためにある、ということを実践してもいた。
学者だけではなく、幅広く市井の人々や漫画家や芸術家、落語家にまで交際を求め、ひろげた。
にもかかわらず時代にも大衆にもこびないために論敵も多かったろうが、
というかきわめて孤独な言論活動であったろうが、
本は残る。
西部邁。
お疲れさまでした。
そして、ありがとう。
☾☀闇生★☽