きょうびプロレスについて言うまでも無いことなので割愛してしまったのだが、一応補足しとこっと。
プロレス嫌いというのが、むろん、いる。
血まみれとか、
汗だくとか、
なんか叫んでばっかでうるさいとか、
とりわけ女子プロはぎゃあぎゃあうるさいとか、
そーゆーの抜きにして、格闘技は観るけどプロレスは観ないという人たちのことね。
つまりが八百長じゃんか、と。
ただその議論ってのは、ウルトラマンや仮面ライダーや、あるいはサンタが現実に存在するかどうかについてやっているようなものであり。
賢しらぶって「いない」とのたまうのは、やぼちんで。
「いるんだっ」と言わせるのも、また然りと。
ガチとやらせの二元論では割り切れない本気の世界というものが、あるんですよと。
いわゆるガチファイトの格闘技が隆盛となって久しいいま、かえってその存在意義というか、プロレスのあり方が明確になってきたのではないかと。
一般は、そのへんの事情をとっくに了承していると踏んだうえでこの映画は作られてるのですな。
試合前のロッカールームでヒール、ベビーフェイスの垣根なく和気あいあいとしている様子を描くし。
その日の対戦相手を告げられるや、敵役と試合の流れを打ち合わせするし。
「そしたらお前は俺の首をしめろ。え? そっちの試合とかぶっちゃう? んじゃあ俺たちはさば折りにしよう」とかね。
技の打ち合わせはしているが、ディフェンスしないのがプロレスの基本なのだな。
そこに体を張るの。
ランディは手首のバンテージのなかにカッターの刃を仕込んでいる。
試合中にこっそりそれで自分の額を切って流血してみせるために。
そこまでこの映画は描いてる。
で、そういう試合を毎日くり返してるのね。連中は。
ボクシングや総合格闘技だって毎日は試合しないでしょ?
プロレスはそういうエンターテイメントを連日くり返して街から街へと旅をつづけていくわけ。
なんでもそーゆー裏事情を撮ったドキュメンタリー『ビヨンド・ザ・マット』に想を得て、この映画は作られたという。
大物ヒールのテッド・デビアスのロープ外への逃れ方とか。
(殴られて吹っ飛んで、必ずトップロープでワンバウンドしてから場外へぶざまに落ちる)
打撃をくらって、ふらふらっと二三歩歩いてから顔からぶっ倒れるのとか。(肩だけで受け身してる!!)
悪役時代のサベージが、あとから登場する敵ホーガンを映えるようにする立ち回りとか。
(入場してくるホーガンをリング上から罵り続け、リング下のホーガンと睨みあい。怒り心頭に発したホーガンがリングにあがるのと入れ替わりに、サベージは怖れおののいた風情でリンク下に逃れる。ステージがサベージからホーガンへと鮮やかにスイッチするわけ。立場を逆転させたサベージはリング下から罵りつつリング回りを一周。するとその罵声を受けながら睨みかえすホーガンは自然と360度の観客にその姿を見せるかたちとなるのであーる。歌舞伎のように、見せ方が計算されとる。)
あれはもう、芸だよね。
井上雄彦の漫画『リアル』のなかでも「名レスラーはたとえ相手がホウキでも、名勝負をする」とかなんとか解説されていたけど、とどのつまりがそーゆー世界なのだ。
そーいや、ハルク・ホーガンの全盛期。
ホーガンは星条旗とともにあって、その敵役はイラクをイメージした中東っぽいキャラだった。
敵がリング上で振るイラクの国旗を、善玉ホーガンがびりびりに破いて星条旗を振るという煽り方だった。
ニッポンジンであるあたしゃその辺で冷めていったのだが、あっちじゃ熱狂していたはず。
国民がまるごと『野蛮vs文明』とかいう図式にまんまと踊らされたご時勢だもの、熱狂するだろう。
熱して狂うからこそ大衆であり、その集まりが『合衆』なのである。
で、
そのなんちゃってイラク人を演じたレスラーは、そのあとリーポマンと名を変えてオールバックにメガネにスーツの銀行の取り立て人という役柄に代わったのですな。
☾☀闇生☆☽