アーティストは政治的発信控えるべきなのか
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この問題は、案外ふるくからある気がしている。
おそらくは音楽家(ミュージシャン)が、芸術家(アーティスト)と呼ばれるようになったころからだったろう。彼ら作家の個人的信条や政治的発言が許容され始めたのは。
その表現性質上かれらの『作品』は陶酔や熱狂を生みやすいく、そのほとぼりのさなかでそれらのメッセージを受信するのだから受け手は無防備だ。
して、それに対する喝采は惰性的だ。
なので、免疫力の弱い若い世代ほどそれらの扇情的表現や熱狂にころり、とやられる。
そして、多くがそこで価値観の基礎を養い、そのまま育って大人になっちまうと。
で大人になってギターかかえて、また誰かにそれを発信したりするのだな。
むかし購読していたジャズ雑誌のライヴレポートにこんなレポート記事があった。
某世界的ドラマーのライヴ。
ドラマーの奥さんが日本人ということもあってMCのたびに彼女がマイクを握った。
日本人である妻を日本公演の通訳として参加させるところに、観客は二人のなかの良さを確認し、あたたかく見守ったのだ。
しかし、ステージが進んでいくと彼女は夫であるドラマーの通訳ではなく、次第に個人的な政治的見解を語りはじめたという。
演奏より長かったというから、そうとうハラのすわった女であろう。
当然、後日批難された。
では、これがドラマー本人のマイクパフォーマンスだったらどうだったろう。
観客は許容するのだろうか。
音楽家(ミュージシャン)を芸術家(アーティスト)と呼ぶこと自体に抵抗を感じ始めて長いのだが、まあそれは良しとしよう。
芸術なら、芸を見せろといいたい。
芸とは、要は腕である。技術だ。
演奏にしろ、歌唱にしろ、パフォーマンスにしろ。
それだけではない。
詩作技術にしろ、そうだ。
芸を見せろ。聞かせろ。
芸術家は芸人であってくれよ。
いいたいことをそのまま垂れ流すだけなら、我々素人と同じ。
うんこしたい。
飯食いたい、のレベル
そして、芸の作品とは、さまざまな解釈ができる余地があってこそではないのかね。
接する人の数だけ解釈を生み出す、それでこそ作品でしょう。
政権批判だのを演説やツイッターで言いきれてしまうなら、政治家にでもなっとけばいいのだ。
技術に徹する市井の芸術家たちを見習え。
パン屋が反核パンとか出すか?
子供のころから信奉していたミュージシャンが、政治的発言を、たいして勉強もしないで、ただただ情にあおられて発信しているのに出くわすと、ほんとうに残念な想いにおそわれる。
考え方の違い、とかいう以前にその表現方法の拙さに、げんなりするのだ。
少なくともプロの表現者だろうが。
字義通りのメッセージを字義どおりに叫んでどうすんだよ。
自己否定になってっつぉ。
歌いらねえだろ。
少なくとも戦争反対なら、戦争をしている国に行って抗議しよう。
核兵器絶滅をさけぶなら、核保有国に向けて発信しよう。
芸には、ユーモア精神が不可欠なのよ。
○○死ね、とかいうには知性はおろか、ユーモアの欠片も、解釈の自由もまったくない。
有体に云って、芸が無い。
☾☀闇生☆☽