壁の言の葉

unlucky hero your key

 森博嗣原作、押井守監督『スカイクロラ』歌舞伎町 新宿ミラノ1にて


 以下は映画の感想です。
 ネタバレと解釈される方もおられるかもしれません。
 また、原作との比較も多少ありますので、ご注意を。




 まず不安だったのが、押井が脚本を他人の手にゆだねたことである。
 そこにいったいどういう心境の変化があったのか。
 原作を二時間にまとめるのがめんどくさかったのか。
 脚本と編集こそが映画の命脈であるだけに、不思議に思った。


 ちなみに言ってしまえば、ハリウッドではよほどの信用がないがぎり編集権を監督にあずけないのも、それがゆえ。
 つまりは、つまらないものを撮ってきても、編集でそこそこにはできてしまうということの証左で。
 いわば保険だ。
 では脚本はというと、そもそも企画のたたき台でもあるわけだから、いわずもがな。
 それくらいこのふたつは、重要であると。


 話をもどす。
 しかしながらスカイクロラ
 観終えてみれば、原作をよくぞあそこまで押し込んでくれたと。
 むろん、そりゃあ欲を言えばキリがないさ。
 なかでも撃墜された味方機を畑の中に回収しに行くくだり。
 現場では、群がる野次馬たちが死んだパイロットを憐れんでいる。
 が、彼らに向かって戦闘機チームの女上官、草薙水素(スイト)が激昂してつめよるのだ。
 憐憫で死を穢すなと。(意訳)
 原作では、草薙という人物を知るうえでもっとも重要なエピソードであり、そこに至るもろもろの経緯もあって、もっともっとアツイのであーる。
 映画での彼女はすでに生きることに倦んでいた。
 しかし、小説でのここはそれより前のエピソード。草薙がまだ現役パイロットとして活躍していたころの話なのだ。
 わりぃが泣くよ。
 それを映画に押し込む必要性から、あんなに乱暴に簡略化しなければならず。
 よってそのパイロットと草薙の関係もがらりと変更されたようで。
 いくらおいしいシーンとはいえ、ちょい出しに使うのは、もったいないっつの。


 まあ、それらを枝葉のこととして片付けるならばだ、重要なのはやはりキルドレという存在だろう。
 種族、といった方が近いのか。
 遺伝子いぢりによって歳をとらず、戦闘以外では死なず、永遠に子供のままでいられる者たち。
 ようするに死ねない、と。
 この終われない、という『苦しみ』。
 それは、いわゆる平和のなかで死を一面的に忌みきらっていると気づけない、根本的な不幸である。
 生きることに倦む、だなんて。
 けど気づけなくとも、それは確実に心を蝕むわけで。
 現代ではスパゲティ症候群とやらで、むやみに生かされてしまったりする『恐れ』もあるくらいだ。
 ならばキルドレでなくとも、その虚無は身近にあるのではないのか。
 そうでなくとも、生の輪郭としての死は実生活からますます遠のき、ヴァーチャルとしてしか触れられず。裏返せば生のリアルは薄まる一方。
 ゆえに「命あってのものだね」とばかりに悪を前に怯懦をさらすおそれだってあるのだ。

 
 そのあたりを映画は実にシンプルに表現していたと思う。


 生命至上主義にからめとられてしまえば、輪廻転生からの解脱がなぜ尊いのかがわからない。
 時間は残酷だという。
 けれど、時間がすぎなければ、不幸もまた積み重なっていくばかりで、いっこうに忘れることができない。
 とすれば、時間の経過もまた慈悲で。
 そのピリオドとしての死もまた、そんなものなのかもしれない。
 などと、つらつら。

 
 もうひとつ。
 大衆批判。
 民主主義とは両刃であって、ともすれば衆愚に堕ちる危険をつねにはらんでいる。
 かつてないほどに自由な現代では、表現者は、もう権力批判だけやっていれば良いものではない。
 スカイクロラの世界では、戦争は民間が請け負っている。
 大衆は、それをショーとして憐れんだり、愉しんだりして日々の平和を実感しているのだ。
 その大衆の非情を、映画はどこまで表現できていたのだろうかと。
 そんな地上の大衆をよそに、戦闘機乗りたちは大空に抱かれているわけで。
 空だけが、抱いてくれるのであって。
 地上の穢れよりも、空。
 そこでこそ活きられるのであって。
 死が明確なぶんだけ、生もまたクリアだから。
 笑えるのであって。
 空だけだから。
 なにもないから。

 
 ナ・バ・テア
 (None But Air)


 映像。
 触れこみ通り、ドッグファイトは壮絶でリアル。
 爆音も迫力があって、劇場ではその音圧が体感できる。
 機体や背景も緻密だ。
 そのCGによる描きこみや画面のブレは、実写と見まがうほどである。
 見にくさも含めてね。 
 けれども、それらリアルのぶんだけ、かえって手描きの人物が浮いて見えるのが最後まで気になった。


 人物。
 ジブリ鈴木敏夫プロデューサーがそれをさして、文楽人形のような、と表現していた。
 文楽は、人形自体は無表情だが、所作でその内面を表現している。
 それは『イノセンス』で強調された押井の演出だった。
 たしかにあれは人間より人形に近い『擬体』なわけだから、それを意図したのはわかる。
 それを今回も採用したのは、やはりキルドレという精気の薄まった者たちだからなのか。どうか。
 まあ、やたらめったら表情のうるさいアニメを見せられるよりは、ずっといいのだが。


 それから、毎度おなじみ間(マ)を活かした押井節は、今回も健在。
 その間が、こちらが嫌というほど集中力を強いてくる。
 まちがいなく映画館の闇の中で、たったひとりで対峙すべき映画である。


 最後に。
 エンディングテーマが流れ始めても観客が立ち上がれないのが押井映画の常だが、今回もそうだった。
 よくあるでしょ、スタッフクレジットが始まると同時にわらわらと立ち上がる風景。
 無礼な、とまで思う。
 余韻もなにもあったもんじゃないよ。
 今回はとくに、最後まで観てください。
 大切なシーンが待ってます。


 おまけ。
 押井節の定番、犬。
 今回のはちょっとしつこい。
 イノセンスのときほどは良くないなぁ。
 お目々がね、人なんです。






 で闇生、
 なんじゃかんじゃ言っても、胸打たれたっす。

 
 ☾☀闇生☆☽


 生命至上主義にからめとられるな、とはいうものの、「命がけって、サイコー!」って叫ぶ某映画のCMには、さすがに眉をひそめます。
 終戦記念日ですし。
 はしたないっ。