どうすか。
今年の夏は、やっぱ旅行とかひかえるむきなんでしょーか。
エロ屋の不況は、もう目も当てられない。
惨憺たるありさまとは、ははん、このことかと。
あちらこちらで、ばっつんばっつん、つぶれている始末。
ちなみに、出入りの営業マン(AV制作メーカー)に聞いてみたところ、性風俗界にも直撃だそうで。
かくいうあたしの勤務する店(エロDVD屋)も、大打撃だ。
グラフでみると、去年の末と、今年の始めではすでに大違い。
原油の値上げのあとは特にあからさまで、さながらギャグのようなオチっぷり。
バナナの皮ですべってこける、べったべたの芸人かいと。
どの月も、去年の同月の面影すらのこしちゃいないのだ。
飲み屋街を通れば、暇をもてあました売り子さんが、所在なく店頭に立っていて。
呼び込みは禁じられているから、彼らは手を鳴らして、ぽつねんとそうしているばかりで。
やらされ感にみちているから、それはそれは、
閑古鳥。
別名シラケ鳥ともいったが。
幻の鳥が、あれよあれよと群れをなしていく。
そういえば、
毎晩遅くまで盛況だった大衆酒場も、今年は、外から見るかぎり空席が目立っていた。
ようするにだ、
みなさん遊びにおカネを使わなくなっておられると。
ならば、まっさきにエロ屋が打ちのめされるのは当然かと。
どうすっぺ。
ともかくも、給料の減額をしてくれろと、申し出ておいた。
帳簿でみるに、まあ、それが妥当なところではないかと。
なにより、言われるより先にね。そこが肝心で。
あたしゃ働かされているんじゃなく、あくまで働いているんだから。
自分の意志で店を切り盛りしてるのだから。いい時ばかりうまい汁を吸おうなんて、甘ったれなのである。
この、なけなしの自発性でもって、プライドを死守しておこうじゃないのと。
そういうお互い様な配慮ができるのもまた、少数のチーム(会社)ならではの、勝手の良さなのだから。
無理しちゃって、もお。
そんなこんなで、
どんなこんなか、
やっとこさっとこ『崖の上のポニョ』を観てきたのである。
脈絡のかけらもないが、おっさんがひとり、真昼の歌舞伎町で親子連れにまぎれてポニョを観たくなる。
ついでにポケモン・スタンプ・ラリーにまでついていこうかと。
そんな気分にさせる夏の朝だったのだ。
んが、
実のところ、立ち見だろうと。
だったら、踵を返して、気の向くままにあっちゃこっちゃと、猛暑を冷やかしてやれと。
そう踏んでいた。
けれど実際は、午後一時十五分の回で、半分以上が空席。
あらま。
あらまっちゃん出べそがちゅーがえり。
『千と千尋〜』や『もののけ〜』のように、回を増すごとに、フィードバックしていく映画ではなさそうである。
ま、
感想はといえば、予想していたとおりであった。
CMで紹介されていた、津波の上を走るポニョのくだりですまん、おっさんは、
泣いた。
けれど、あれはまだまだ物語の前半なのである。
以下、ネタバレに感じられる方もおられるかも知れませんので、ご注意を。
たしかに宮崎駿のめくるめくイメージの大洪水、ならぬ大津波は圧巻である。
がやはり、エンターテイメントとして観るには、そのイメージをつなぐ説明が省かれているから、閉口するかもしれない。
絵画で言えば、額縁の制約を逆手にとって、外側にはみ出した世界。
額縁の外を感じさせる、あれ。
問題は、その『感じさせる』の省き方が、たとえば『天空の城ラピュタ』より、あらあらしいのだ。
それは『千と千尋』にも目立ってはいたのだが、本作は、その比ではないと思う。
省いた切り口を、縫合せず。
突き放して、ほったらかしである。
勝手に想像せい。
ここでは、『となりのトトロ』にあった、子供にしか見えない不思議の制約が、解除されているし。
ついに大人たちもそれを目撃する。
それは彼の現代劇に共通していた約束ごとで、『千と千尋』にも受け継がれていたのだが。
にしてもだ、
やっぱポニョは可愛い。
こっちが恥ずかしくなるくらいに。
それで、いいのだ。
劇場では、彼女の恐れ知らずのふるまいに、頻繁に笑いがもれていたし。
考えてみれば、そういう種類の笑いも、久しぶりで。
日常では、バラエティー番組に代表されるように、笑いのための笑いばかり。
つまり、笑わそうとして稼ぐ笑いで、あふれかえっている。
けれど、笑いというものはそればかりではなく。
たしか宮崎がどこかで発言していたはずなのだが、当人は笑いをとろうとはしておらず、真摯に一生懸命なのだが、そのひたむきが生みだしてしまうオカシミ。そんな笑いこそ、幸福感を含んでいるもので。
仕事柄、エロもまたそうだろうと、思っている。
音楽に、首をかしげた。
邪魔に感じる箇所も、少なくなく。
なんちゃってワルキューレが飛び出したり。(ま、ウケちゃったけど。)
あと自分の親を下の名前で呼ぶ習慣。
あれってその昔、ベタな欧米かぶれとしてよく指摘されていた時代があった。
てっきり、いっときの流行りだと思ったのだが。いまでも、あるんですかね。
親と友達づきあいみたいのがカッコイイと。
そういうことにしておく価値観。
うちは平等でござい、と。
そんなこったから、叱れない親が量産されたのですが。
愛のムチの放棄である。
親子が友だち関係みたいなものなら、うざくなれば切るばかりである。
実際問題として、いやだろうが、なんだろうが、親子だし。
有体を言えば、主従。
それは絶対的で、それがゆえに残酷でもあって。
その宿命もまた、人生で。
愛の過酷で。
そこへいくと本作では、ちゃんと叱る親の怖さも強調している。
にしては、下の名前で呼び合う親子関係でありながら、きちんとシツケをする、される、その力関係の仕組みは説明されていなかった。
ただ産んだ、というだけでは親にはなれない。
叱り、褒め、教え、育てて、少しずつ親になっていくのではないのか。
愛のムチを手にする権利。
なんちゃって友だち関係で、それをどう獲得するのか。
すくなくとも、社長を下の名前で呼んでいたら、社長は社長としての責任を体現できんのじゃないのか。
「ねえ太郎、給料あげてよ」
んなことまで考えんで、いいのだ。
一介のエロ屋が。
帰りにTOWER RECORDSに立ち寄る。
ポイントカードがたまっていたので、それでコーエン兄弟の映画『ノーカントリー』のDVDを購入。
コーマック・マッカーシー著の原作を、先日、読み終えたばかりなので。
さてと、
皆さんよい夏を。
☾☀闇生☆☽
夢ではきっと、アッコちゃんの大群に包まれるに違いない。
それはポニョを観れば、わかる。