『ポニョ』の感想の補足。
これと、先日観た『ノーカントリー』もそうなのだが、期せずして時代設定が極めて近かった。
どちらも現代ではある。
だが、ポケットに入るようなケータイはまだ市販されていないような『今』なのだ。
双方の作者は、あえてその時代を選んで創作している。
これがたとえば『ポニョ』の場合『あいたい』の気持ちにバネをつけているわけ。
航海からなかなか帰れない父、夫との『あいたい』。
災害にみまわれて消息のわからない親しい人々との『あいたい』。
母との『あいたい』。
てっとりばやく、いつでもどこでも先方を確認できてしまうのは便利だし、安心だが、このバネの弾力はそのぶん弱められてしまう。
いや、それ以上に、見えない先方へ働かせる想像力を、退化させかねない。
『ノーカントリー』の場合は、サスペンス要素が強いから、これを利用して不安をあおる。
それはともかく、『ポニョ』。
あいたいから、会いにきた。
そう大っぴらにふるまえる年齢とか、関係とか、まぶしいっすわ。
人と人が直接あう理由。
それは、この先どんどん薄められるだろうから。
でも本当は理由なんざ無いはずで。
無くていいはずで。
ただしこれが大人になると、いろいろメンドーなんすけれど。
一方的なケースも出てきたりとね。
「あいたいから、会いにきた」
『ノーカントリー』の殺人者、アントン・シガーに言われたら、おぞけだちますが。
ちびりますが。
☾☀闇生☆☽
守護霊になって、そばにいてえぞ。