と言っては見たものの、
結局、眠れそうになく、あれから朝食の支度にとりかかった闇生なのであった。
煮干で出汁をとりーの。
野菜を切りーの。
水に浸しーの。
それでも時間が半端にあいてしまったので、読みかけの本をながめつつ横になった。
司馬遼太郎の『大盗禅師』(文春文庫)。
時代は大阪の落城からまもない江戸初期である。
倒幕と、明国の再興をたくらむ闇の組織があって。
海をまたぐその一派の全貌は、まったくの謎で。
率いるは幻術つかいの坊主、人呼んで大盗禅師。
こいつ、まことにもって食えぬ奴なのである。
そして、
彼らに翻弄されるひとりの浪人、浦安仙八の波乱の運命を描いていく、と予想する。
いまのところ。
司馬遼のは、幕末ものも、戦国ものも好きだ。
けれど、なによりこの妖術ものがあたしゃ大好物でしてね。
よく言われる司馬史観の臭みも、このジャンルならば気にならないし。
ともあれ、
ページを開くや否や、折りしもエロいことになってきているではないか。
これまで謎の男とされていた異国人が、おや、ひょっとして女なの? てな展開なのである。
意外と華奢だし、
引いたその手が、白く細く、しなやかで…、可憐。
男か、はたまた女か定かならぬその相手に、仙八は、なんつーかそのぉ、前をほにゃほにゃされていくのである。
拒もうか、
拒むまいか。
なんせ、ほにゃほにゃだ。
葛藤するそのあいだにも次第に音が、湿ってくる。
それにつれて夢と現、男と女の境界線が熱をはらんで妖しく溶けていき。
惑乱する仙八に、
「天界では」
と、へその下の攻め手が言うことにゃ、
「本来、男女の区別がありません。人があるのみです。人が人を恋います」
とな。
いかん。
目ぇ、すっかり冴えちまった。
それでも気合で、小一時間ほどまどろんだ。
何ごとも気合である。
気を合わすのだ。
よって、朝のストレッチはサボり。
寝ぼけた頭のなかには、たまの『サーカスの日』が鳴っていた。
昨夜、彼らの解散ライヴDVD『最期のたま』を観たせいだろうな。
パーカッションの石川浩司はこの曲をトイレの柄付きブラシで演奏してて。
滝本晃司の詞が、あいかわらず儚くて。
ハモりにまわった知久寿焼の声がたまんねえんだな。
うん、いい曲だ。
けど、司馬に、たまねえ。
食い合わせの妙に、きっとこの闇生のポンコツ・ヘッドがバグったのに違いなく。
んが、
それはそれとして、バグの粋なはからいとして、愉しむ闇生なのであった。
☾☀闇生☆☽