かつての勤務先の近く−。
それはそれは見事な枝垂れ桜があったのだ。
そこは住宅の密集する丘の北がわで。
車の通れないような小さな坂道が、家々をクランク型に縫っていて。
その中ほどに、横道にそれる階段がある。
四段か。五段か。
それは補修のあとで継ぎはぎだらけで。
これを上ると、またそこにべつの坂が続くのだが。
春ともなればこの白い階段に、はらはらと花びらが舞い落ちる。
見上げると…、
ね。
桜。
崖の上の家から柵越しに、柳のような枝を垂れている。
ある年の春。
この階段におばあさんが腰をかけていて。
勾配に疲れた足腰を休めていたのか、あるいは降りしきる花に見とれていたのか。
通りかかった見知らぬあたしにむかって、
「ほら」
花びらを手で受けるような仕草をされた。
それはまるで童女のような笑みで。
こっちゃ、なんか照れてしまって、笑い返すしかなく。
きっと、だれかと分かち合いたくなるほどの感動だったに違いない。
たしかに、あの光景には誰もが息を呑んだことだろう。
その枝垂れ桜―。今はもうない。
崖の上の家が建て直しをしたから、そのついでなのか。
消えてしまった。
近くには、かつて公団があって。そこの桜も立派なものだった。
これまた丘の上である。
黒くたくましいその幹で、古びたコンクリート塀を傾がせて、ずんと立っていた。
それも二本。
塀は、コンクリートに固められた山肌の突端にあって。
といっても、下の道からそれほどの高さもない。
が、散った花びらのことごとくが、この斜面に降りそそいで。壁面は、まるで粉砂糖をかけたようになる。
人通りもめったに無くて、
喧騒の街にぽっかりと、隔てられている感じがよかった。
ここの桜も、公団の取り壊しとともに消えた。
風呂付きではなかったから、連鎖的に近所の銭湯も廃業し。その向かいの床屋も移転を余儀なくされた。
実を言うと、あたしゃ桜の木の下で、どんちゃんやらかしたくなる性分ではない。
こういう人知れず咲き誇っているのと、ひょっこり出くわしたりするのが、好きだ。
あるでしょ。
気をつけて見渡せば、君の近所にも。
そんなプチ名所がさ。
でだ、
せっかくそんな桜の季節なのだ。
坂口安吾の『桜の森の満開の下』でも読み返したろと。
それは前後左右、天地までをも桜の花びらに包まれた、森の底。
音が、降りしきっている花びらに吸い取られて、静寂と花冷えの風だけが浸している白い闇。
その狂気。
ふと、どこかから呼び止める女の声がして…。
あの、おぞましくも美しい光景を、脳裏に根性焼きにしたろかと。
そう考えているうちに、散ってしまうに違いないぞ。桜。
ならばだ、
野田秀樹が率いた夢の遊眠社の芝居『贋作・桜の森の満開の下』でも観直そうか。
だなんて考えているうちに、やっぱり散ってしまうのだろうよ。桜。
知ってんだぞ、桜。
さくらよ。
あんちゃんはせつないよ。
☾☀闇生☆☽
桜のイメージの曲っていうと、
ううむ。
いろいろありますが、今思い浮かんだのは、
SKETCH SHOWの『FLAKES』だな。
『LOOP HOLE』ってアルバムに入ってるはずです。
エレクトロニカ系好きにはお勧め。