だれでも。

 心のままに、とひとは云ふ。


 迷いなく心のままに生きていければ、しあわせだ。
 けれど実際は、傷つけたり、殺めたり、騙したり、貶めたり、盗んだり、あるいは落胆したり絶望したり嫉妬したり、というのもそれぞれの心のままの結果であり、


「誰でもよかった」


 ならば、心のままに振舞っても傷つけたり、殺めたり……を、しないようにしようと知恵を働かせ、リレーしてきたわけで。

 その躾けの役割を宗教や道徳や倫理や慣習や風習やそれらに基づく法律なんかが担ってきたのだろうけれど、
 それら躾けの根拠を、
 聖域の魔法を、
 解いてしまった現代では、躾けにとらわれていないことを美徳とする風潮は強まっていくばかり。
 それはそれでかまわないし、また後戻りもできないのだろうが、ならば、その躾けの魔法の代わりは、はて、あたしらは持っておったのかと。
 せいぜい頑張っても個々人の頭で考えた理屈でしか正しさとかいうやつは賄えないのではないのかと。
 その善悪の根拠をはたして刹那的存在にすぎないひとりの理屈でどこまで賄えるのかと。


 はてさて、人生のそこかしこでの一挙手一投足を逐一理屈で編み上げていくことが、はたして『心のままに』のふるまいにあたるのだろうか。
 自由なのだろうか。
 考えなくても自然と正しい動きをするまで理屈を突き詰め、それこそ自由にふるまえるようにトレーニングを重ねるものではないのかと。
 サッカー選手然り、
 ミュージシャン然り、
 職人然り、
 芸術家然り、
 日常なら車の運転然り……。


 彼らは感じたまま、心のままに動いている実感があるが、その実、その境地に至るほど訓練を積むし。勉強をするし。キャンバスの縁に該当する規律というフレームを受け入れることで、そのなかに自由を見出している。 
 つまりが自分を躾ける。




 
 グールドの奏でるバッハのように、とは言わない。
 たしょう調子っぱずれでも、雨上がりの子供の鼻歌のように奏でてみたいものですな。




 ☾☀闇生★☽