体罰で、
他人を変えて見せる。
鍛えることができる、という愛他風自惚れも、
わたしは褒めれば延びるタイプです宣言。
というノーリスク・ハイリターンねらい式ええかっこしいの保身も、
所詮は精神論ではないのか。
セイシンロン。大いに結構、ではあるのだが。
生徒がもっとも欲している『理』への無関心、逃げ、スタンスは、
表裏の違いこそあれ、どちらも同じなのであーる。
理屈。
理由。
原理。
論理。
などなど。
体罰だろうが褒めだろうが理にかなっていれば、すとんと胸に落ちるものだ。
たとえば、
なにゆえビンタなのか。
ケツバットでなく、腕立て伏せでなく、
あえてビンタなのか。
それもなぜ三発なのか。
左側だけ。
それで左頬だけが腫れれば、その輪郭の流線によって走塁時の空気抵抗が左側だけ増し、そこに生じる制動力が常時右半身の推進力へ変換されることによって、ベースランニング時の反時計回り運動の遠心力を助け、それがどうしたこうしたと。なんたらかんたらと。理屈にしてみい。
理にかなうことができるのなら、かなわせればいい。
褒めもね。
漠然と褒め散らかすなよ。
その根拠を理屈で示せと。
その手のほったらかしってのは、感じますから。
スポーツ科学、とかいう賢しらぶったジャンル分けに加担するわけではないが、
桑田の野球指導や、古武道の甲野善紀の運動理論などを聞いていると、なおさらそう思うのね。
学ぶ心は、
「なぜ?」
から出発している。
だもんで褒めよりも罵倒よりも、まず納得いきたいのであーる。
追記。
無論、頭でっかちはいかん。
学ぶことには不可欠の『反復練習』『真似る』は考えていても仕方の無い事ごと。
それをすることでしか見えてこないものがあるよ。たぶん。
……ということも実は教える側、教わる側双方の「なぜ?」への真摯な態度によって、得られる。
さらに追記。
あ。
シツケは別ね。
理屈抜きに、駄目なものは駄目、とどこかで線引きせんといかん。
そういう植え付けが、将来の相対化地獄への予防になる。
☾☀闇生☆☽