原作、手塚治虫『鉄腕アトム 地上最大のロボット』より、
浦沢直樹著、
長崎尚志プロデュース、
手塚眞監修、
『PLUTO』小学館。全8巻読了。
以下は、そのネタバレ感想です。
ご注意を。
この世のすべての人格を入力しても、ロボットは動かない。
膨大な情報の混沌によってたちまちフリーズしてしまうという。
その解決には怒りや、悲しみや、憎しみといった偏った感情の注入が不可欠で。
それが六十億の混沌を整理するらしい。
なるほど、手段が目的を得たかのごとく、情報が方向性を得るのだ。
しかしその偏り(とびきりの憎悪とものすごく大きな悲しみ)によって目覚めたアトムは、「憎しみは何も生まない」とする。
いや、
願うのだな。
憎しみのない世界を。
この物語はそこで終わるが、
けれども、負の感情あってこその生命ならば、憎しみはなくならないはず。
さながら、光と影のように。
ならば問題はその飼いならしといおうか、付き合い方にあるのではないのか。
だから、空を見上げて憎しみのない世界を思う結末は、どこか宙ぶらりんの印象があった。
あるいは、その不毛を訴えたのか。
にしてはロボットに涙という演出は、あまりに安直で、非科学的のような…。
他のシーンとのバランスがとれていないかと。
そもそも、涙や表情を描き込まずにロボットの感情を表現するのは、原作者の手塚治虫の得意としたところだったはず。
実際、夫を亡くしたメイドロボのシーンに、それが踏襲されてあった。
なのに、肝心のクライマックスでそこから後退してどうすんだよ、と。
ともかく、負の感情を飼いならす葛藤は、『もののけ姫』のアシタカがすでに体現している。
彼は身に受けた死の呪いによって超人的な力を得ていたし、あの世界では生と死のコントラストも良く映えていた。
(浦沢プルートゥは、憎悪にかられた悪神、もののけのタタリ神であると考えると面白いかもしれない。)
今作ではゲジヒトというロボット刑事が自らの憎悪と葛藤するが、先の「憎悪あっての生命」の提示があるために、彼の願う「憎しみは何も生まない」と相克するのだな。
それならそれで、がっつりと苦悩してほしかった。
その苦悩こそが、生きるこったよと。
出だしからの流れの良さは浦沢の得意芸。
サスペンス要素たっぷりである。
ぐいぐい引き込んで、放さない。
問題のプルートゥの正体も、その攻撃も一切隠されて、否が応にも想像力をかきたてられる。
『謎』の持つ引力。
して、チラリズム。
んが、
その煽りが強烈だったがゆえに、クライマックスでは「こんなもんかい」と。
まっぱになったら、なあんだと。
ちょっち腰が砕けた。
『二十世紀少年』でも、同じような感想をもった記憶がある。
そのはぐらかされ感は、オチが常に抽象的概念に向けられているところに。
とりわけその強引さにあるような気がしているのは、きっとあたしだけだ。
愛とか。
平和とか。
憎しみのない、とか。
それ自体は否定しようのないものなのだけれど、ふんわりと、もやもやとしていて、つかみどころのないものに抱きすくめられてしまったような。
もっと具体的に、
ぎゅっとしてくれ。
と、抽象的に終えておく。
☾☀闇生☆☽
追伸。
原作にあったウランちゃんの変装シーン。
「お兄ちゃんのパンツ」をはいてアトムになり済まし、戦いに挑む愛らしくもエロティックなあのシーンは、無かったわ。
うん。
んなこと言ってると、アグネスに叱られるかな。
三伸。
ひょっとすると、提示された価値観が、結末まで貫かれてしまいがちかな。
『二十世紀〜』で強く感じたのだが、主人公たちの心の成長の幅が少ない。
若き正義観が、そのまま貫かれるような。
最初に抱いていた正義観が裏返ってしまうような、そんな成長なり変化がほしいものだ。
読者は主人公といっしょに坂をのぼり、視界を広げることで、読後に坂のふもとを振り返るのだし。
あんなとこに居たんだ、俺はと。
それが平たんではねえ。
たとえば、
黒澤明の『赤ひげ』の医学生安本。
彼にとって当初赤ひげは、悪の権化だったよ。
さらに急いで付け加えれば。
おなじく手塚原作のアニメ版『メトロポリス』。
これのときにも強く疑問を感じたことがあって。
「ロボットに心はあるか」
それが物語の要(かなめ)になってくるのだから、「心の無い」状態とのコントラストを明確に提示しなければならないはず。
すればこそ、心が際立つわけで。
しかしそれは心を定義づけする作業であるからして、えらく困難ではあるのだろうが。
して、そこがいつも曖昧であるからこの手のものは、煮え切らないぞと。
(序盤からロボットの感情の大安売りなのであーる。)
望ましいのは、説明やセリフではなく、映像的な演出としてそれを示すことか。
生煮えは、もどかしいのよ。