年末に『ホテル・ルワンダ』をDVDで観た。
その感想を書きあぐねているうちに、とうとう年を越してしまった。
ルワンダのフツ族がツチ族を標的にした実際の民族浄化事件を取り上げていた。
虐殺される運命にあったツチ族の1200人あまりを匿ったフツ族のホテル支配人、ポール・ルセサバギナの勇気ある行動が描かれている。
本作は虐殺のむごさをことさらに見せつけることもなく、そして人種平等や平和を声高に、そして執拗に叫ぶこともない。
それらの結論めいたメッセージは、所詮はその危機の部外者か、もしくはそれを逃れた者の胸の内であらためて整理され、のちに語られるものなのではあるまいか。
大量虐殺という国家レベルの酩酊、泥酔状況が現在進行するなかでは、孤立したひとりの素面が叫ぶ理想論など通じるわけもなく。
なんせ彼は恐怖の渦中にあるのだから。
当事者だもの。
それも回想ではなく、当時の視点で描かれているのだもの。
ならば賢しらに理想を叫ぶゆとりなどあろうはずもない。
その急場、急場で自分にできるうることを模索し、迷い、苦悩し、行動するのみでいっぱいいっぱいだろうことは想像に難くない。
1200人を救った、というのはあくまで結果であって。
彼の妻が虐殺の標的とされるツチ族であるということが、まず第一の問題であり。
しかしそれが、まるで流感のように蔓延していく偏狭で頑なな差別感情から彼が距離を置き続けることのできた理由なのだ。
人でありつづけることを支えた、杖なのだ。
その杖こそが人類にとっての幸い、なのである。
自分だけ、
いや、
せめて自分の家族だけでも救えれば。
その他の1200人を見捨てれば、あるいはそれが可能なのかもしれない、と葛藤したことは一度や二度ではないはず。
アニマルとしての、
私人としての、
家族人としての、
個人としての、
そしてまた公の人、
文化人、文明人としての、それぞれの側面を持つ自分のなかでの戦いでもあるのだ。
そして彼は葛藤のなかで、人であることをやめてまで生きてどうする。という誇りを獲得したのに違いない。
国外退去命令に従い、危機に背を向け、母国へと帰っていく海外ジャーナリストが口にした言葉、
「自分が恥ずかしい」
その恥辱の自覚にこそ『人』が宿っている。
むろん、この事実を世界に広めるために、映画ではドラマチックな演出が施されただろうことは、はっきり臭っている。
それが鼻に付くかどうかは好みの分かれるところだろうが、そんな好みなどは、この際置いてしまえ。
くわえて、少しでも宣伝の役に立てるならと、ひと肌脱いだに違いない名だたるスター達の出演も。
しかし、それを差っぴいても、
そして映画としての完成度の云々は置いて、一見の価値はあると思うよん。
☾☀闇生☆☽